人気ブログランキング |
<   2015年 01月 ( 14 )   > この月の画像一覧
立ち止まって、しゃがんでみると広がる世界。
b0001402_17471064.jpg
雨の翌日の晴天に街を歩くのが好き。

視覚によって世界の奥行きを感じられると、
人生の選択肢も多面的に捉えられるような気持ちになる。

ありがとう。
水溜りと青空に感謝の日。
by KazuFromJP | 2015-01-31 17:57 | ただの写真。(カメラに感謝)
スニーカーで、雪の積もった坂道をくだりながら、
b0001402_12403536.jpg

天気と感情の関係について考えていた。

ヒトが感情を持つよりずっと前から天気の変化は存在していたわけで、
天気が年中変化していたところにポッと、
ヒトの感情が乗っかってきたんだと思うんだけど、
一体どうなっているのかこの、
いつもの道が雪景色になっただけで
ワクワクルンルンで散策している僕の感情は。

ちょっと青空に飽きていた今日この頃。
それでも、こんな雪景色が毎日続いたら―、
今度は青空の散歩道をルンルンで、カメラを片手に散策するのだろう。

そんなこんなを、
雪から雫が落ちる瞬間を待ちながら考えていた。
散策も思考遊びもそれぞれ楽しい。

やはり、天気のおかげか。

ありがとう。
お天気の変化感謝の日。
 
by KazuFromJP | 2015-01-30 12:55 | ただの写真。(カメラに感謝)
雨上がりの朝。
b0001402_15183578.jpg
雫をまとった街の被写体たちが、
サンライトを静かに浴びて、
モデル気取りですましていた。
by KazuFromJP | 2015-01-27 15:24 | ただの写真。(カメラに感謝)
雨が降っていた。
雨の中の通勤は嫌だが、
雨の中をただ歩くのは楽しい。
b0001402_1648861.jpg

イチョウの葉が落ちてから、
街中でほとんどシャッターを切らなくなっていた。

心がフレッシュな時には、
目に移る世界が本当に美しい。
何気ない風景の中に世界の不思議を発見する。
思わず風景を長方形に切り取る。
シャッターを切る。

そんな気分でもないときには、
どんな風景が僕の目には映っているのだろうか。

美しいとは感じないが、まあまあ面白いかと感じるこの平凡な、
冬の雨の日にとりあえず、
シャッターを切ってみる。

カメラに残された画像よりも、
写真を撮ってみようと試みた形には残らない体験が、
何だか鮮明に心に刻まれた。

これが何なのか今の僕にはわからないけれど、
古いテレビドラマの中で、
森本レオが言っていた言葉を今ここでふと、思い出した。

「書けない時は、書けないという事を、書くしかない」


ありがとう。
書けること、撮れること、歩けることに感謝。
 
 
 
by KazuFromJP | 2015-01-22 17:10 | ただの写真。(カメラに感謝)
決断しよう。
リスクを負おう。
b0001402_19255629.jpg

人前で書くというのはリスクなのだ。
でもそれがいいのだ。

久しぶりに、ネポ先生の言葉を転載したい。

人は皆、決断したり、リスクを負おうとしたりする前に、うまくいくという保証を欲しがりますが、何かを決めたり、そのリスクを負ったりするということは、自分を運命の前に差し出すということなのです。

私の場合、振り返ってみると、詩人になったのは、何を言わねばならないのかわからないまま、言葉をつむぎだすことに専念した結果でしたし、人から愛されるという経験は、どうすればいいかわからないまま、「自分は人を愛することを求めている」と素直に認めたあとにやってきました。

止まり木から飛び立たないと、鳥は空を飛べません。心の沈黙から飛び出さないと、愛することはできません。求めないと、あらゆるものが内側でただ待っているだけになってしまいます。

「人生に向き合う」とは、その先どうなるかわからないまま行動することだと学び直しているような気がします。自分の心に耳を傾けるということも、まさにそういうことです。

(『自分を変える心の磨き方』 マーク・ネポ著より)


決断しよう。
リスクを負おう。
自分を運命の前に差し出そう。

求めよう。
行動しよう。
心の声に、耳を傾けて。

最終的に何が得たいのか、
純粋に、ひたむきに、その場所に向かって。

     ◆

今日も誰かしらの、何かしらになると信じて。
決断と行動とリスクとネポ先生感謝の日。
ありがとう。
 
 
by KazuFromJP | 2015-01-19 19:33 | 人間学実践塾・ユング心理学など
幸せとは、貢献力への確信だと思う。
自分の存在や行動が、
この世界や誰かのためになるだろうと信じられている人は幸せだし、
健康だし、それが生命力を生み出しているような気がする。
b0001402_1928379.jpg

それは自己完結・自己満足の世界になるので、
その人はその人自身が信じる行動をすることで幸せに、
健康になれるだろうけれどその行動は、
別の誰かにとってはおせっかいで余分で、
迷惑になることももちろん往々にしてあるわけで―。

でも行動している人はそれで幸せなので他者からどうこうできるものでもない。
被害者はどうすればいいのかという話だが、
アドラー心理学では「課題の分離」という技を使う。

以下いつもの『嫌われる勇気』より抜粋転載。
*****************************************
世の親たちは頻繁に、
「あなたのためを思って」という言葉を使います。
しかし親たちは明らかに自分の目的、
―それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません―
を満たすために動いています。

つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、
その欺瞞を察知するからこそ、
子どもは反発するのです。

およそあらゆる対人関係のトラブルは、
他者の課題に土足で踏み込むこと
―あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること―
によって引き起こされます。

課題の分離ができるだけで、
対人関係は激変するでしょう。

(『嫌われる勇気』 岸見一郎・古賀史健 著より)


*****************************************

野口嘉則さんはこのことを、
「自分の輪郭をはっきりさせる」
「他者と自分の境界線を引く」
という言い方をしていた。

土足で他人の課題に立ち入ることも、
やりがちだということを知っていなければ
「良いこと」をやっているつもりで
ついつい土足侵入をしていることがある。

土足被害を受けることも、
日々自分の感情を細かく観察していると、
それほど大きな感情の揺さぶりに遭わなくとも、
「プチ土足攻撃」は頻発していることに気がつく。
無意識にスルーしているんだけど、
無意識にスルーしていることにもちゃんと気づいていたほうが、
自分の心をコントロールしやすくなる。
「無意識の意識化」などとユング心理学ではいう。
良い言葉だ。

土足被害を受けた時には、
「あ、この人は土足で立ち入ってきてるんだな」と
観察する目を持てたら、もうそこで境界線を引けるものだと、
日々の些細なプチ土足攻撃を振り返ってみて感じた。

      ◆

自分なりの、この世界への、社会への貢献力を、
自分の内側の世界を探して、
どのように見出すことができるのか、それが人生の課題であると思う。

少し前の僕は心理学が万能だと信じていたけれど、
心理学が必要ない人もいるのだと感じる出来事がいくつかあった。

結局、
客観的に見て他者の課題に土足で上がりこんでいる人がいたとしても、
その当人が全く気づかずに他者に嫌な思いをさせていて、
相手の役に立てていると思っているのならその場合、
心理学が必要なのは被害者のほうであって加害者のほうではない、
という意識の転換があった。

どんなに人に嫌がられても、
本人にその自覚がないなら、
問題はどこにあるのかといえば、
嫌だと感じている人の中にあるということ。

その論理はある意味冷徹で、
いじめている人が無自覚であったなら、
いじめられていると感じている人に問題があるということになる。

けど、心理学の示す結論はそこじゃないかと、
いうところにたどりついた。

心理学の結論は冷徹だが、
そこに立ち向かおうとする人のことは、確実に救ってくれる。

心理学は攻撃のための工具箱ではなくて、
救済のための薬箱なんだと思った。

      ◆

また話が飛散したけれど、
たぶんこれがいい。

誰かしらの何かしらになると信じて。
今日も感謝の日。
ありがとう。
 
 
 
by KazuFromJP | 2015-01-18 20:01 | 人間学実践塾・ユング心理学など
何でもない時間を切り取って
b0001402_21384121.jpg

ただ貼り付けていく。
by KazuFromJP | 2015-01-08 21:39 | ただの写真。(カメラに感謝)
4才の姪が先日撮影した僕の写真だが、
b0001402_1856342.jpg

僕の撮影する構図にちょっと似ていて、
たまたまなのか、
彼女が僕の写真を見ているからなのか、
血の繋がりなのか何なのか知らないが、
ちょっと嬉しく思った新年のひととき。
 
by KazuFromJP | 2015-01-07 19:03 | ただの写真。(カメラに感謝)
ひとやすみ。
b0001402_2126527.jpg

by KazuFromJP | 2015-01-06 21:26 | ただの写真。(カメラに感謝)
法然と親鸞が言った。
「何年修行しても、煩悩がなくなることはなかった」
マザーテレサの手記に残されていた。
「私には、神を感じることはできなかった」
b0001402_20525493.jpg

偉人たちの、正直な心の内面の告白に、
何だか勇気づけてくれるものを感じる。

そういう話に触れると安心して僕も、
自分の志す整体の「気」を感じる才能が僕にはないということを、
自分自身に対して正直に、認めることができるような気がする。

それは野口嘉則さんが言うところの「健全ながっかり」であり、
そこに行き着いて初めて、
地に足着いた主体的行動の選択が始まるのだと思う。

自身の才能に対する過度な期待の裏には、
限界を知ることへの怖れが内包され、
その怖れは、
「可能性を残すために挑戦しない」
ということをしばしば選択してしまう。

      ◆

整体の開祖である大先生を父に持つ先生が今日、
講義の中でこんな話をした。

「僕は40年整体をやってきたけれど、
親父のやっていた整体が何なのか今でもわからない。
けれど3、40年前の僕のわからないレベルと、
今の僕のわからないレベルでは、
同じ『わからない』でも全然違います」
と。

親鸞は比叡山で20年修行したとのことだけれど、
20年修行して煩悩がなくならなかった自分を見つめた時の
親鸞の気持ちはどんなものだったのだろうと
思いを馳せた。

20年間修行していない僕には、
「20年修行して何も得られなかったらどうしよう・・・」
などという恐怖が襲いかかってくるけれど、
実際本当に道を求めて進んできた人は、
たとえ求めたものが得られなかったとしても、
何か別なものを各々必ず見出しているのだろうなと、
親鸞法然、マザーテレサ、整体の先生の話を通じて感じた。

むしろ、求めたものが得られることのほうが実際、
少ないのかもしれないなと思った。
そして得られるものというのは、
20年前の自分には求める以前に、
考え付くことすらできなかったものじゃないかと。

      ◆

スティーブジョブズの有名なスピーチにもあったけれど、
いま打っている点がやがて線として繋がっていくことを信じて、
今はそれが何なのかわからなくても
ただやっていくしかないのだと、納得した。

このブログも同じで、
10年前に始めた時に何となく求めたものはあったと思うけれど、
その時には考え付くことすらできなかったものを、
今までに僕はここで得ることができた。
これからもきっとそうだろう。


ありがとう。

たくさんの偉人たちと、
彼らのこぼす素直な本音に感謝の日。
 
by KazuFromJP | 2015-01-05 21:09 | 人間学実践塾・ユング心理学など