やっぱり夢より味わいライフ
今日の暮らしのお役立ち……生き甲斐

僕は、将来の夢を持たない若者だ。
僕がここに書いてきたものを読んでくれてる10人くらいの人たちはすでに、知っていると思うけど。
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今朝、このインターネットワールドで、「夢なんかいらない」みたいなことを書いている人に出会い、再び共感の味わいに乾杯した。

田口ランディという名前は本屋で見かけたことがあった。けれど僕は、その人の本を手に取ったことなどないし、どんな人なのかも知らなかった。ランディなんて名前だから、ランディ・ジョンソンを想像して、男性作家なのかと思っていた。

その人が女性だと知ったのも、その人が書いた文章を初めて読んだのも、ついさっき、今朝のことだ。

ネットで、調べものサーフィンをしていたらたまたま、田口ランディという人のウェブログにたどり着いたのだ。それはあの、運命というやつだ。僕がもし、4ヶ月前にその人の文章に出会っていたら、今朝とは全然違った受け取り方をしていただろう。

僕はランディさんと違って、フリーター生活なんかをしていて、今やっている空港での仕事なんかは、成果を求められたり、努力や周囲の評価で給料が変動することなどないし、何かに不安になるとかいうことも全くない。僕は心配性ではないし、むしろその間逆だと自覚している。僕の行動が周囲の人たちを心配させ、僕に対するその過度な心配が心配なくらいだ。

その記事には、ランディさんがいろんなことにビクビクしながら生きていて、心配性だから夢などわいてこないとか、そんなことが書いてあったが、文章全体からの印象では、それほど心配性な人だとは感じなかった。読者の上からモノを言わないように、なるべく自分の弱い部分を強調させて、共感させた上で言いたいことを言ってるような印象を受けた。その解釈は恐らく、単なる僕の希望なのだろうがそれでも、

気功師になったら―。―その気になってしまったらどうしよう・・・
というところでは、「不安」と言いつつどこか楽天的にその、味わいライフみたいなものを想像して、明らかに楽しんでいるように思える。

と、僕はそんな文章分析推測ゲームを書きたいわけじゃなかった。そんなことより僕はただ、嬉しかったのだ。

夢がもてない、自分のやりたいことがわからない……という、若い人が増えているということだったけど、夢をもったり、やりたいことがわかる方が変なんじゃないのか?
と思っている人がこの世界に一人でもいたということが。そしてその人が確かに、僕と同じ時代の中に、今日も存在しているということが。

僕は今まで、いろんな「味わいライフ」のことについて書いてきたが、今のところ一番嬉しくて楽しい味わいというのは、おととい書いた、「共感の味わいライフ」なのだ。

でも「共感」と言ってもいろいろあって、誰かさんの悪口を給湯室で言い合って盛り上がったり、「何だかデニーズのチョコレートパフェが食べたいなあ。」「部長!奇遇ですねえ。ボクも今そう思ってたとこなんですよ!」とか言って媚売ったり、僕が今ここに書いているみたいに「うんうん、アイツはよくわかってるよな」みたいにして有名な人と同じステージに立ったつもりになって調子こいたりと、客観的に見て、「美しくない共感ゴッコ」も結構ある。というか、たぶん「美しくない共感」の方がこの世界には溢れているんじゃないかと思ったりもする。

でも、たとえ傍から見て美しくなくたって、そのとき自分が本当に共感の世界にトリップしていたらそこには、確かに共感の喜びがあるし、嬉しい。自分の大嫌いなAさんのことを、Bさんがすばらしい比喩を用いた言葉で斬り捨ててくれたらちょっと嬉しくなってしまうし、本当にデニーズのチョコレートパフェが食べたいと考えていたときに部長が、「食べたいなあ」とかつぶやいてくれたらビックリして喜んでしまう。

傍で見ている人がどう感じていたって、その共感ゴッコの深みを味わっているのは誰でもない自分自身なのだ。

夢をもったり、やりたいことがわかる方が変なんじゃないのか?
というところで共感して嬉しくなっている僕も、Aさんの悪口を語ってくれたBさんに共感しているのとなんら変わらない。

そして僕は、仕事だとか自己実現だとかいう大きな夢みたいなところではなく、こういうちっぽけな共感の味わいのところに、生き甲斐みたいなものを感じたりしながら今日も生きている。

「気功のプロを絶対に目指す!!」とかいうんじゃなくて、「気功師ってものがあるのか。おもしろそうだからやってみるか」みたいな感じの味わいライフ。

いい作品を書きたいと思うが、それは夢……じゃない。だったらさっさと書けよ……みたいな、そういう今を問われていることなので、とても夢と思えない。夢なんか見てる年かよ……、つべこべいわずに死ぬ前に書けよっていう、突っ込みが自分の内面から入ってしまう、とほほ。
「つべこべ言わずに死ぬ前に書けよ」っていう言葉は、いい響きがした。

これは自分が死んじゃう前にってことなんだろうけど、僕はそれよりも、みんながどんどん死んでいっちゃう前に何か書いたり作ったりしたいと最近感じている。これもおととい書いたようなことだけど、人は毎日いっぱい死んでて、明日誰が死ぬかもわからない。でも必ず毎日、人は死んでいる。死んじゃった人から受信することはできることがあるけれど、死んじゃった人に何かを発信することは一応、できない。それは例えば、夏目漱石の『こころ』を僕は読むことができるけれど、夏目漱石に僕のブログを見せることは、とりあえずできないというようなことだ。

この世界の人がみんな平等に、同じ時間だけ、例えばみんな100歳まで生きてそこで死ぬのだとしたら、僕も何らかの「夢」みたいなものを抱いたりするのかもしれない。でも、生まれて数分で死んでしまう人生もあるし、自分で自分の職業を選べない文化の中に生きる人たちもこの世界にはいっぱいいる。

でもその人たちは決して、「カワイソウな人たち」ではない。誰かをカワイソウだと思う時、その人(物)は自分より不幸だと感じている。じゃあ自分はその人よりシアワセなのか。自分のシアワセって、

「ああ、ワタシ、あの人よりシアワセ」

とか言って、他者との比較によって表せるような、そんなちっぽけなものなのか。

僕はただ、この世界のいろんな味わいを感じた瞬間が嬉しいし、幸せなのだ。それは例えば、スーパーでカゴを同時に重ねようとしてぶつかったおばちゃんと見つめ合って笑った瞬間とか、新宿でホームレスの女性に話しかけられて過ごした数分だとか、空港の郵便倉庫でシーサーが入ってる小包を発見した時だとか、そういう味わいライフの日々なのだ。

数分で終わってしまう誰かの人生も、職業選択の自由がない文化圏で暮らしている誰かの人生も、「夢を持たねばならん!」とか声上げて言ってる人に否定されたって、そこにはそれぞれのオリジナルな味わいライフが確かに存在しているのだ。この世界の光、音、香り、温かさ、苦しみ、きっと僕が決して味わうことのできないような角度から、それぞれを味わっている人がこの世界には、いっぱいいるのだろう。

夢を持てる人が夢を持つのは、それはそれでいいことだと思う。そこにも味わいがあるから。ただ僕は、その「夢」っていうものを、味わいライフのテリトリーから出してしまうのが怖い。いつか似たようなことを書いたけれど僕は、「挑戦の中にある味わい」よりも、「味わいの中にある挑戦」を選ぶ。

だから夢より、味わいライフなのだ。
そして今日も、感謝の日ということで、田口ランディさんに感謝。

さらに、僕がネット調べ物サーフィンを始めるきっかけとなった『バタフライ・エフェクト』について日記で書いてくれてた、恐らくこの文章を読んでくれてるであろうその人に感謝。そして今日も、どうにか死なないように動いてくれてる僕の身体と、殺さずにそっとしておいてくれてる世界中のみんなに、久々に感謝だ。

今夜から、再び徳島へ旅立ちます。味わいたい世界がそこにあるから。

そして僕のゲームはまた続く。
by KazuFromJP | 2005-06-19 11:04 | 味わいライフ
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