70年代
ときどき、70年代について考える。
ある日、電車の中でふと、まわりを見渡してみたとき、妙な孤独感を覚えた。
「この車内・・・。この中で、70年代の空気に触れたことがないのは、僕だけだ。」
b0001402_29491.jpg
70年代って、どんな世界だったのだろうと、考える。僕はその世界に、存在しなかった。僕にとってその世界っていうのは、社会の教科書の中にあるもので、明治維新とか世界大戦とか、そういったグループの中に位置しているものだ。

けれど、電車の中とかエレベーターとか、日常のいろんな場面でふと、周りを見渡してみると、70年代の空気をくぐり抜けてきた肌をもつその生き物たちに、四方八方囲まれていることがしばしばあるのだ。

「この人たちみんな、『70年代王国』を旅したことがあるんだなー。」

それはまるで、まわりのみんなが火星に行ったことがあるのに僕だけ行けない、そういう感じ。みんなは火星に行ったことがあるから、火星人はまあまあハンサムだったとか、火星料理は塩気が微妙に足りないわねとか、そういうことを話すんだけど、僕は図鑑でしか見たことがなくて、だから、へーそうなのかと、脳内にその映像(ハンサム火星人&薄味火星料理)を立ち上げてみるだけなのだ。

電車内、のんびりジョブアイデム(求人誌)めくってる疲れ顔のおじさんも、腕組んで先輩そよ風吹かせてるスーツの男も、その男に「―ッスね~。」とか言ってる兄ちゃんも、何が入ってるんだか気になってならないでかい風呂敷包みを抱えて腰下ろしてるそこのおばあちゃんもみんな、70年代を知ってるくせに、ちっともその、なんというか威張った素振りを見せないところがかえって腹立たしい。

あぁどこにあるのか70年代。しかし、決して行くことのできない僕としては、その存在自体が何だか疑わしい。それはつまり、70年代など本当に存在したのかということだ。絶対にたどり着くことのできない僕は、彼らがみんな、誰かの催眠術にかかって、70年代という架空の世界の存在を信じ込まされているだけなんじゃないかと思ったりもする。

もう20年も生きてきたのに、70年代という場所はどこにもなかった。でも、いま世の中にいる半分以上の人が、70年代の風景を見たことがある、とアンケートで答えているのだ。70年代はその、UFOやツチノコなんかとは違うのだ。

僕が一生、どこを探しても、どこまで歩いてもたどり着けないその世界を、確かに生きていた生物がそこここに、ゆうゆうと歩いてる。いっぱいいる。一体どうなっているんだ。

ここは博物館じゃない。シーラカンスに囲まれて電車にゆられるこの孤独。シーラカンスと僕。どうすることもできない。しかしシーラカンスは、毎年確実にその数を減らしているのも事実。あぁ、どこへ行くのかシーラカンス。

電車が駅に滑り込み、眠った女性が乗ってきた。専用カートの居眠り運転中だ。乳母車という名の。彼女は、僕の仲間のようだ。握手したかった。70年代に行けないグループ。しかし彼女はいつか、20世紀の存在を疑いだしたりするのだろう。

同級生が歴史教科書に載り出し、僕もまた、シーラカンスとなってゆく。そしたらいつか、僕もあの空気に触れることができるのだろう。実際できはしないが、あの頃の空気に触れたことにされるのだろう。やがて80年代と70年代の境界壁が崩壊し、僕は「あのころ」の風景の中に生息した生き物となる。「あのころ」は拡張していき、60年代と90年代も巻き込んでいく。それは例えば、70歳と110歳が、「高齢者」という同じグループにまとめられてしまうように。70年前には、0歳と40歳だったそのグループ。

70年代。僕がその空気に触れることはできないけれども、僕の脳には先人の物語がたびたび刻み込まれ、やがて70年代のレプリカシーラカンスとなる。

そんな頃まで生きてたらある日、電車の中でふと、妙な孤独感を覚えるだろう。

「この車内・・・。この中で、20世紀の空気に触れたことがあるのは、僕だけだ。」
by KazuFromJP | 2005-05-24 02:08 | ゲーム『人間』
<< Dear ゴキブリ1号 喫茶店感謝の日。 >>