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わからないことをわからないと言いたい。
自分を大きくも小さくも見せずにありのままでいたい。
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人によく見られようと頑張っていると
現状の自分の本当のレベルが見えなくなっていく。
他者に過大評価を与えるように振舞うと、
心の内では時に自分で自分に過小評価を与えていたりする。

自分の有能性と至らなさと、
双方を正しく認めたうえで、
自分に見合った次なるステップに足を掛けたい。

      ◆

ふつうに過ごしていても他人は自分に
勝手な評価を与える。

それによって自分の評判は上がったり下がったりするけれど、
自分の能力は上がりも下がりもしない。
モチベーションが上がったり下がったりするだけだ。

「虚栄の自分」から抜け出して、
「真実の自分」の姿と共に自分が望むステップを一段一段上がりたいと思う。
それは別に聖人君子になる為ではなく、
そのほうが間違いなく成長が早く、
自分の求める能力や理想の姿に到達する近道だろうから。

      ◆

以下、今月読み返している『フランクルに学ぶ』(斉藤啓一・著)より

自分の存在を脅かしそうな「敵」は、完全に抹殺しない限り安心できないだろう。徹底的に無力化しなければ、不安で仕方がないだろう。その結果がホロコーストであり、強制収容所の徹底的な人間性の否定だったのである。
だが、強制収容所が否定した「人間性」は、真の人間性では決してなかった。それは単に「虚栄に満ちたニセの自分」に過ぎなかったのだ。それゆえ囚人たちの中には、もはやいかなる恐怖も超越し、「神の他には何も恐れない」ほどの勇気、真の人間性を確立した者がいたのである。それはまさに、「誇りに満ちた真実の自分」だったのだ。
斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)
学校でも会社でも、テレビでも新聞でも、
他者より優れていることの価値を絶賛するため、
自分の理想を思い描く際にもついつい、
他者より優れた自分であるようにイメージしてしまいがちになる。

他者より優れているかどうかの評価は他者が判定してくれる。
そうして自分の生き方を他者の目線に合わせることになる。

他者の評価基準は、ホロコーストと同じ。
評価するその誰かにとって、
存在を脅かさないかどうか。
その誰かにとって有益な存在かどうか。

     ◆

しきりに議論されている政治問題も社会問題も、
交わされている言葉の多くは、
各人の潜在的な恐怖から出ている言葉ではないかと
感じてしまうことがしばしばある。
(単に自分の心を写しているのかもしれないが)

何とかそこに染まらずに、
優劣を争う議論から抜け出して、
「虚栄に満ちたニセの自分」とは遠いところで
理想の自分を追いかけたい。

そのために、
わからないことはわからないと言いたい。
わかったフリはしたくない。
デキル人間のフリもしたくない。

「わからないということ」も、
「現状知識や能力が足りていないこと」も、
人間性の優でも劣でもないのだから。

      ◆

わからないことを認められる者同士で、
純粋な成長を求められる者同士で、
フランクルの言う「誇りに満ちた真実の自分」に
日々一歩ずつ、向かっていきたいなあと思う。

でもそれが難しい。
それらを言葉でわかったつもりでも、
やっぱり他者にほめられると嬉しいから。

だからこそ意識して、
自分がわからないことやできないことを、
「わからない」「できない」と積極アピールしておくことで、
つけ上がることを少しでも自ら防止できるのかもなと思う。

      ◆

ありがとう。
わからないこととかできないこととか、
それらを分かち合える仲間とかに感謝の日。
 
 




by KazuFromJP | 2015-10-28 00:40 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
起きる問題の多くは、個人レベルであれ、国家レベルであれ、
何かが足りないのではなくて、
何かが余分なのだと思った。
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少なくとも、自分にとっては―。

久しぶりに、ネポ先生の言葉を借りたい。
ココヤシの実に、ちょうどサルの手のひらが入るくらいの穴を開け、そこから中身をくりぬきます。そして、中をくりぬいた実の中に米を入れ、サルの通り道におきます。

をのうち、腹をすかせたサルが米のにおいをかぎつけ、実の中へ手を入れます。しかし、米をつかんだら、手は穴から抜けなくなります。そうして、米を手ばなさないと、サルは捕まってしまうのです。

米を握りしめているかぎり、サルは自分で自分をとらわれ者にしています。ワナが有効なのは、サルが米を手放すことができないからです。

この話は、深い真実を暗示しています。私たちも常に「自分にとっての米とは何だろう」「握りこぶしを開き、米を手放すのを妨げているのは何だろう」と問いかけてみる必要があります。

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(マークネポ・著 野口嘉則・訳 『自分を変える心の磨き方』より)




何かうまくいかない問題に直面する時、
良い解決法はないかと模索する中、
ついつい足し算で考えてしまいがちだ。

例えばココヤシの実から手が抜けない自体に陥った時、
穴をムリヤリ削って大きくしようとしたり、
腕を振り回してみたり、
手に潤滑油やせっけんを塗ってみたり、
ココヤシの実を割ろうと叩きつけてみたりというようなことを
いろいろ試してうまくいかない。

ぶち当たった「壁」や「敵」の攻略する手立てばかり考えて、
握りしめている自分の手に目が行かない。
そういった場面が、往々にしてあるような気がする。

      ◆

手放すのは怖い。だから無意識にそこから目を背けて、
代替の解決策を探してしまっているのかもしれない。

人々が抱える多くの問題に於いて、
何かを手放す覚悟、勇気を持てたら、
シンプルな解決へと向かうのだろうと思う。

ただその前に、
自分が米を握りしめていることに気づけなくてはいけない。
つかんでいる事に気づかなければ、
手放す発想が生まれないから。

何か問題っぽいことに出会ったときには思い出したい。
自分が何か、手放せなくなっているものはないか。
しがみついているものはないかないか。
何を怖れているのか。

      ◆

何かを手放す訓練としてここに書いていきたい。

「手放さなければ!」
というように気を張らずに
もっと何となく、こうパッと、
「ちょっと手放してみるか」的に。

ありがとう。
今日はサルと米とマークネポ先生感謝の日。

 
 

by KazuFromJP | 2015-10-25 08:55 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
誰かに読まれる場所に文章を書くという時点で、
虚栄から完全に距離を置くことはできない。
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読んでいただける人にはその観点をどこかに持ちつつ、
僕の劣等感や思慮の浅さに触れていただけたらと思う。

      ◆

日々特別なことではなく、「淡々と毎秒最善の選択」
というのが僕の目指したい生き方だけれど、
実際は最善から何百秒も、
何万秒も遠ざかってしまうことは日常茶飯事で、
だからこそわざわざ言葉にして
自分に言い聞かせながら目指す価値が
僕にとってはあるわけで。

ダルマさん人形が転がって揺られては元の位置に戻ってくるように、
不定位な気持ちがゆらゆら中心に集まってくるような辺りで、
心の流れや展望を観察していた。

      ◆◆

2009年から学んできた人間学実践塾の課題図書で、
『フランクルに学ぶ』(斉藤啓一・著)とのご縁をいただいてから、
僕の人生におけるお気に入りの一冊になっている。

今月改めて読み返していると、
過去6年間にに書き込みした様々な自分と出会うが、
過去の自分たちが素通りしていた箇所にまた次々目が止まり、
何年もかけて繰り返す読書は面白いなと改めて思う。

新しく傍線を引き、日付を書き入れた。
下記その辺をちょっと引用。

すなわち、ホロコーストとは、人間の根源的な差別意識の現われではなかったのだろうか、ということだ。

差別とは、自分を他者より優位に立たせようとする行為である。その根底にあるのは、おそらく自己保存の欲求であろう。この自己保存の欲求から、他者から侵害されるのではないかという恐怖が生まれてくるわけだ。

その恐怖にかられて、敵から襲われないように力をつけようとする。あるいは、力があるように見せかけよう(威嚇しよう)とする。

これが、自分を優位に置こうとする根本動機ではないのか?
これが、虚栄心や差別の根源ではないのだろうか?

(中略)

要するに、虚栄心も差別意識も、恐怖に対する防衛的態度の現れなのだ。虚栄によって人を見下し、虚栄心も差別化する根本動機は恐怖なのである。


(斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)


      ◆

仕事をしていても、買物をしていても、何かの講座の場面でも、
従業員・客、講師・生徒問わず、
相手を威圧しようとする態度が垣間見られることが多々ある。
威圧の態度だけでなく、
ニコニコしながらも必要以上に
自己の能力をアピールする姿に出会うことがある。

プンプンしていようがニコニコしていようがたぶん
その態度の動機は近いところにあって、
何がしかの能力の有無に関わらず、
能力を必要以上に見せつけることで、
自分を優位に置こうとしているのだと思う。
自身にも痛く思い当たる節が多々ある。

そこにあるのは劣等感からくる恐怖心で、
そのおおもとは、フランクルのいう
自己保存の欲求なのかもしれない。

      ◆

そういう仕組みについて考察しているマニアックな人間でも
無為自然で生きているような人でも
流されるままに生きている人でもみんなきっと、
自己保存の欲求はあるから、
誰かが不意に威圧してきたらまた、
それに対して防衛反応が起こって、
各人の心の特性に合った防衛行動に繋がっていく。

自分はさらに上だぞとアピールするように相手を威嚇したり、
ニコニコして仲間ですよとアピールしたり、
表情を変えずに何事もなかったように見せたり、
受け流した後で、自分の心の中で昇華したり。

      ◆

他者が不意に自己の優越性をアピールして攻めてきた際の、
聖人君子的な最善の選択は、
相手自身の中にある恐怖と欲求を察知した上で、
相手の欲求を満たすように虚栄の茶番に付き合い、
劣等者役として徹することだろうと今の僕は考察する。

ならばいつでも淡々と劣等者役になれたら
淡々と最善の選択の実践者になれるわけだけれど、
なかなかそうスムーズはいかない。
その理由は恐らくこうだ。

虚栄と誇りはもちろん違う。虚栄を満たすには他者を必要とするが、誇りは他者を必要としない。誇りとは、他者ではなく自らを征服した者の、内的な真の自信なのである。

(斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)


相手の欲求を満たすように虚栄の茶番に付き合い、
劣等者役として徹してやろうとすることでまだ僕は、
相手の上に立とうとしている。
相手を見下す「虚栄」から脱却できていないこと故に、
自分の優越性を見出してくれる誰かを求めている。

      ◆

しかし聖書や経典の役割が恐らくそうであるように、
このフランクルや斉藤啓一氏の言葉が、
内的な他者となり得れば、
それを僕自身の誇りへと育ててゆける。

そういった角度から見れば、
聖書や経典は、
ただの印刷物であるところにとても価値があるように思う。

虚栄から脱却しようとして、
急に内的な誇りに基づいて行動しようと試みても、
生身の人間の多くは評価を与えてくれないわけで、
心が折られてまたすぐ虚栄へと向かってしまいがちになる。

しかし聖書や経典と同様に、
自分が見出さなければ何も応えてくれないという意味で、
本や、過去の偉人の言葉や行為は、
「誇り」へと向かおうとする心が折られそうな場面で、
いつでも支えになってくれる。

『フランクルに学ぶ』という本に触れることで、
僕はその支えを実感することができた。

聖書を枕元に置いて生きている人にとってはきっと、
この感覚が日常なのだろうと、聖者たちに想いを馳せた。

      ◆

虚栄社会が向かう理想は恐らく、
ギブアンドテイクの褒め合いに至り、
それはそれでほどほど心地良いかもしれない。

でも想像してみるとどこか、
世界全体のバランスがおかしいというか、
不安定な空気が思い浮かぶ。

それはたくさん並べた大小異なるダルマさん人形の上に、
ガラスのプレパラートをいくつも渡すように並べている感じ。
ダルマさん同士は直接ぶつからないが、
プレパラートの重みと角度によって傾けられたダルマさんは、
他のダルマさんに向かって傾いたまま止まってしまう。

そんなガラス板を全て取り去って、
ダルマさん同士で直接ぶつかり合えば、
表面的な衝撃は大きくなるけれど、
その度にゆらゆら互いに揺られてやがて、
自分の中心軸に戻っていく。
その中心軸が、他者を必要としない「誇り」かなと思う。

プレパラートのない関係に想いを馳せて、
日々自分の劣等感と向き合いたい。

      ◆

僕の書く文章が「誇り」に拠るものでも「虚栄」に拠るものでも、
それを受け取る誰かにとっては恐らくどうでもよい問題で、
多くの人は、自分の内なる問題として受け取るはずだと僕は考える。

単に他者に優劣を付ける行為であっても、
結局は自分の中にある「優」と「劣」の
とある指標からの距離を測っているわけで、
自分の中の問題に触れていることになる。

だから、虚栄に拠る僕の文章であっても、
フランクルや斉藤啓一氏の残した文章や生き方が
僕の誇りを支えてくれるように、
読む人それぞれが、自身の中に新たな価値を発見する
何がしかの種にでもなればいいと思いつつブログを続けてゆく。

自身の中では、優劣や勝ち負けのレベルを超えて、
また、時間や場所も越えて、
誰かと何かを共有できたら楽しいだろうという気持ちで
ここに今、この瞬間の軌跡を残してゆく。

      ◆

今日もありがとう。
フランクル博士、斉藤啓一氏、僕の中の誇りや虚栄に感謝の日。
いまここに在る場所と時間に、ありがとう。
 
 


 
  

by KazuFromJP | 2015-10-18 09:22 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)