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今日、いろんな人のウェブログを覗いてみた。そして思った。中傷と否定の境界線って、どこにあるのだろう?

「何言ってんだあいつは。バカだ。頭悪い。」
これは中傷。

「あの人はああ言っているが、私はそう思わない。」
これは否定。

このインターネットの世界で、言葉を残していくというのは一体どういうことなのだろう。この世の中には、自分と違った意見を持った人がたくさんいる。これは誰もがよく知っている。その中で、ひとは自分の存在を、「自分はこうなんだ」と、アピールしたがる。それは自然なことだ。そして、自分は「こう」だと他人に説明する時に一番手っ取り早いのが、「比較」。意見を述べようとしている自分は「人間」だから、「比較」の相手も「人間」となることが多い。
「あの人はこう言っているけれど、私はこうなんだ」と。

最近、日本のニュースにはいろんな「悪者」が登場しているらしい。僕はその、「悪者」になっている人たちのことを詳しくは知らないけれど、大勢の人が、「あいつは頭がおかしい」「何も分かっちゃいない」「どうしようもない奴だ」なんて言っているのを見ると、「へー、そうなのか」と、ちょっとでも思ってしまう。

と思ってしまう一方で、知らない誰かが、何だかいろんな人たちから悪く言われているのを見ると、まあいい気分はしない。その「悪者」になっている人は、社会の「和」とか「公平」とかいうものを乱したりして、たくさんの人たちの心を不快にしているのかもしれない。けれど、否定すべきポイントは、その人自身ではなくて、その人の持っている意見のほんの一部だということを、僕たちは熱くなりすぎるとしばしば忘れてしまう。

とりあえず「悪者」とされてしまっている人のすべてを、メディアから「彼」を知った人たちは、知ることなどできない。その「悪者」の人が、実は先週、
「トラックにひかれそうになった磯野さんちのタマを助けました」
昨日は、
「マンションの屋上から身を投げようとしたのび太君を説得して止めさせました」なんて事実があったとしても、僕らはその事実を知ることができないのだ。

インターネットでの発言は、街角で交わされる他愛無い会話とは少し違う。インターネット上の言葉は、そこに残されていく。街角で交わした言葉がもし、その場所に残されてしまうとしたら、もしかしてそこを通りかかるかもしれないその「悪者」の人やその人を大切に想っている方々をおもい、「あいつは頭がおかしい」だなんて言いにくいだろう。

「言葉の暴力」という言葉がある。一方で、「表現の自由」という言葉がある。「給湯室での噂話に癒し効果」というニュースを読んだことがある。「第三者への悪口を交わすことによって、ヒトは仲良く話すことができる」というちょっと哀しいが、一つの事実を経験から知った。誰かの悪口は、時と場所によっては、誰も傷つけず、それどころか幸せにすることだってあるというのも一つの事実だ。

「時と場所」。インターネットの中にもいろんな場所がある。その中で飛び交う「中傷」と「否定」。熱くなっている時に、「これは中傷か否定か」と、自分を客観視するのは難しい。客観視し過ぎるといつの間にか熱が醒め、言葉から魂が抜けてしまうこともしばしばある。

僕は最近、「目的と手段」についてよく考える。意見をする「目的」とその「手段」。ここで「手段」は、既に決まっている。ウェブログというインターネットワールドだ。そこで発言する「目的」は何なのか?

「誰かを悪く言うことによってひとの上に立つため?」
「自分とはこういう奴だ! と、その存在をアピールするため?」
「発言という発信によって自分を成長させるため?」
「自分の知識を多くの人と分け合うため?」
「自分って物知りでしょ、ということをアピールするため?」
「第三者の悪口を言い合うことによって仲良くなるため?」
「とにかくこの思いをどこかでぶつけたいという欲求を満たすため?」
「こういう意見もあるよ、てことを紹介するため?」
「自分が嫌いな誰かの評判をとにかく落とすため?」
「自分はこうだけど、あなたはどう?っていう問題提起のため?」

あなたがインターネット上で発言する時、その「目的」は何ですか? その目的のために、インターネットという場所は適切な「手段」ですか?

ところで今日、僕がここに言葉を残した「目的」は何だろう?
by KazuFromJP | 2004-09-22 20:50 | ゲーム『人間』 | Comments(0)
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これは以前、ミクシィというところに書いた記事にちょっぴり修正を加えたものだ。


―もう10ヶ月も前のことになる。ワナカ湖に立ち寄った時、鳥を見た。そして思った。
「こいつらは『人間』じゃない」と。
鳥たちの人生(鳥生?)とは何なのだろう? ひたすらえさを求めて飛び回っている。または人間が投げるのを待っている。僕はそんな人生を送りたくはない。でもヒトの人生も謎だ。一体何なのだろう? そんなことは随分昔に考えたことだが、いつも何度でも改めて考え直してしまう。

湖のほとりに咲いている花を見て不図かんがえた。花は動くことができない。しかし、移動しなくとも生きていける。ヒトは移動できる。しかし、移動せずには生きてゆけない。移動できるということは優れていることだと、常々考えてしまいがちだが、移動せずに生きてゆけるというのもまた、優れた能力であると、不図おもった。

湖のほとりの芝に寝転んで逆さまに湖を見た。そのVIEWは、空が天球であることを語っていた。いつも、ふつうに景色を撮影したり絵に描いたりする時、景色の裏や上にある青空は、壁のような存在として捉えがちだが、空はいつでも球体で、壁と天井の境目などはないのだ。

リチャードバックの「かもめのジョナサン」を、ピクトンという港町で読んだ。その日、青空の中を舞っていたかもめは、とても輝いて見えた。僕はそのかもめの中に、『人間』を見ていた。

そこで見たかもめはまるで、
「カモメとは、自由という無限の思想であり、また“偉大なカモメ”のいわば化身であって、体全体が翼の端から端まで、君らがそれと考えるもの以外の何ものでもないことを理解しなければならん」
という「かもめのジョナサン」で語られていた、一見わけのわからない言葉を理解しようとして空を舞っているかのように、僕の目には映った。

ヒトは自分の持っていない能力を持った他者に、尊敬や好感、嫌悪や恐怖などを感じるものだが、そこでいう能力の優劣は、それを見る角度や価値観によって逆転する。花とヒト、ヒトと鳥、動けるほうが面白いのか、動かないほうがたくましいのか、えさを待っているほうがかしこいのか、自由に青空を舞っているほうが格好良いのか、そんなことを考えて生きているのと気にしないで生きていくのとで、どんな風に違った景色に出会えるのか。また、この場所でひたすら心の叫びを書き続けるのといろんな人たちの叫びをひたすら聞きに出かけるのと、そのどちらにどのような光が見えてくるのか。

文体が激しい感じになってきたので穏やか系でまとめるとしよう。

花も鳥も空も湖もそして人間も、みんな素晴らしいね。学校では数字の大小ばっかり気にするように教育されたけど、3時間と3メートルはどっちが長くて素敵で美味しいのかなんて答えはたぶん見つからないし、この世界にはそういうことがいっぱいあるみたいだから楽しいね。そしてそんなことを考えて楽しんだりもできる、「人間」は素晴らしいなってまた喜んでしまう。そこでまた「人間」って何なのだろうというところに戻るとまた激しい感じになりそうなのでこの辺でやめておこう。
by KazuFromJP | 2004-09-17 18:30 | ゲーム『人間』 | Comments(0)