カテゴリ:人間学実践塾・ユング心理学など( 36 )
決断しよう。
リスクを負おう。
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人前で書くというのはリスクなのだ。
でもそれがいいのだ。

久しぶりに、ネポ先生の言葉を転載したい。

人は皆、決断したり、リスクを負おうとしたりする前に、うまくいくという保証を欲しがりますが、何かを決めたり、そのリスクを負ったりするということは、自分を運命の前に差し出すということなのです。

私の場合、振り返ってみると、詩人になったのは、何を言わねばならないのかわからないまま、言葉をつむぎだすことに専念した結果でしたし、人から愛されるという経験は、どうすればいいかわからないまま、「自分は人を愛することを求めている」と素直に認めたあとにやってきました。

止まり木から飛び立たないと、鳥は空を飛べません。心の沈黙から飛び出さないと、愛することはできません。求めないと、あらゆるものが内側でただ待っているだけになってしまいます。

「人生に向き合う」とは、その先どうなるかわからないまま行動することだと学び直しているような気がします。自分の心に耳を傾けるということも、まさにそういうことです。

(『自分を変える心の磨き方』 マーク・ネポ著より)


決断しよう。
リスクを負おう。
自分を運命の前に差し出そう。

求めよう。
行動しよう。
心の声に、耳を傾けて。

最終的に何が得たいのか、
純粋に、ひたむきに、その場所に向かって。

     ◆

今日も誰かしらの、何かしらになると信じて。
決断と行動とリスクとネポ先生感謝の日。
ありがとう。
 
 
by KazuFromJP | 2015-01-19 19:33 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
幸せとは、貢献力への確信だと思う。
自分の存在や行動が、
この世界や誰かのためになるだろうと信じられている人は幸せだし、
健康だし、それが生命力を生み出しているような気がする。
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それは自己完結・自己満足の世界になるので、
その人はその人自身が信じる行動をすることで幸せに、
健康になれるだろうけれどその行動は、
別の誰かにとってはおせっかいで余分で、
迷惑になることももちろん往々にしてあるわけで―。

でも行動している人はそれで幸せなので他者からどうこうできるものでもない。
被害者はどうすればいいのかという話だが、
アドラー心理学では「課題の分離」という技を使う。

以下いつもの『嫌われる勇気』より抜粋転載。
*****************************************
世の親たちは頻繁に、
「あなたのためを思って」という言葉を使います。
しかし親たちは明らかに自分の目的、
―それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません―
を満たすために動いています。

つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、
その欺瞞を察知するからこそ、
子どもは反発するのです。

およそあらゆる対人関係のトラブルは、
他者の課題に土足で踏み込むこと
―あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること―
によって引き起こされます。

課題の分離ができるだけで、
対人関係は激変するでしょう。

(『嫌われる勇気』 岸見一郎・古賀史健 著より)


*****************************************

野口嘉則さんはこのことを、
「自分の輪郭をはっきりさせる」
「他者と自分の境界線を引く」
という言い方をしていた。

土足で他人の課題に立ち入ることも、
やりがちだということを知っていなければ
「良いこと」をやっているつもりで
ついつい土足侵入をしていることがある。

土足被害を受けることも、
日々自分の感情を細かく観察していると、
それほど大きな感情の揺さぶりに遭わなくとも、
「プチ土足攻撃」は頻発していることに気がつく。
無意識にスルーしているんだけど、
無意識にスルーしていることにもちゃんと気づいていたほうが、
自分の心をコントロールしやすくなる。
「無意識の意識化」などとユング心理学ではいう。
良い言葉だ。

土足被害を受けた時には、
「あ、この人は土足で立ち入ってきてるんだな」と
観察する目を持てたら、もうそこで境界線を引けるものだと、
日々の些細なプチ土足攻撃を振り返ってみて感じた。

      ◆

自分なりの、この世界への、社会への貢献力を、
自分の内側の世界を探して、
どのように見出すことができるのか、それが人生の課題であると思う。

少し前の僕は心理学が万能だと信じていたけれど、
心理学が必要ない人もいるのだと感じる出来事がいくつかあった。

結局、
客観的に見て他者の課題に土足で上がりこんでいる人がいたとしても、
その当人が全く気づかずに他者に嫌な思いをさせていて、
相手の役に立てていると思っているのならその場合、
心理学が必要なのは被害者のほうであって加害者のほうではない、
という意識の転換があった。

どんなに人に嫌がられても、
本人にその自覚がないなら、
問題はどこにあるのかといえば、
嫌だと感じている人の中にあるということ。

その論理はある意味冷徹で、
いじめている人が無自覚であったなら、
いじめられていると感じている人に問題があるということになる。

けど、心理学の示す結論はそこじゃないかと、
いうところにたどりついた。

心理学の結論は冷徹だが、
そこに立ち向かおうとする人のことは、確実に救ってくれる。

心理学は攻撃のための工具箱ではなくて、
救済のための薬箱なんだと思った。

      ◆

また話が飛散したけれど、
たぶんこれがいい。

誰かしらの何かしらになると信じて。
今日も感謝の日。
ありがとう。
 
 
 
by KazuFromJP | 2015-01-18 20:01 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
法然と親鸞が言った。
「何年修行しても、煩悩がなくなることはなかった」
マザーテレサの手記に残されていた。
「私には、神を感じることはできなかった」
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偉人たちの、正直な心の内面の告白に、
何だか勇気づけてくれるものを感じる。

そういう話に触れると安心して僕も、
自分の志す整体の「気」を感じる才能が僕にはないということを、
自分自身に対して正直に、認めることができるような気がする。

それは野口嘉則さんが言うところの「健全ながっかり」であり、
そこに行き着いて初めて、
地に足着いた主体的行動の選択が始まるのだと思う。

自身の才能に対する過度な期待の裏には、
限界を知ることへの怖れが内包され、
その怖れは、
「可能性を残すために挑戦しない」
ということをしばしば選択してしまう。

      ◆

整体の開祖である大先生を父に持つ先生が今日、
講義の中でこんな話をした。

「僕は40年整体をやってきたけれど、
親父のやっていた整体が何なのか今でもわからない。
けれど3、40年前の僕のわからないレベルと、
今の僕のわからないレベルでは、
同じ『わからない』でも全然違います」
と。

親鸞は比叡山で20年修行したとのことだけれど、
20年修行して煩悩がなくならなかった自分を見つめた時の
親鸞の気持ちはどんなものだったのだろうと
思いを馳せた。

20年間修行していない僕には、
「20年修行して何も得られなかったらどうしよう・・・」
などという恐怖が襲いかかってくるけれど、
実際本当に道を求めて進んできた人は、
たとえ求めたものが得られなかったとしても、
何か別なものを各々必ず見出しているのだろうなと、
親鸞法然、マザーテレサ、整体の先生の話を通じて感じた。

むしろ、求めたものが得られることのほうが実際、
少ないのかもしれないなと思った。
そして得られるものというのは、
20年前の自分には求める以前に、
考え付くことすらできなかったものじゃないかと。

      ◆

スティーブジョブズの有名なスピーチにもあったけれど、
いま打っている点がやがて線として繋がっていくことを信じて、
今はそれが何なのかわからなくても
ただやっていくしかないのだと、納得した。

このブログも同じで、
10年前に始めた時に何となく求めたものはあったと思うけれど、
その時には考え付くことすらできなかったものを、
今までに僕はここで得ることができた。
これからもきっとそうだろう。


ありがとう。

たくさんの偉人たちと、
彼らのこぼす素直な本音に感謝の日。
 
by KazuFromJP | 2015-01-05 21:09 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
ここ10年くらいずっと、新年を迎える瞬間には仕事をしているし、
年が明けたくらいで何も変わった気はしていなかったのだけれど―、
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今日までのこの3日間、
12月の自分にはできなかった行動が淡々と
実行できていることにふと気がついて、
新年という「節目」の存在に感謝の気持ちを抱いた。

「節目」や「区切り」という仕組みを用意してくれた
この社会、先人たちに感謝したい。
ありがとう。

そしてふと、
僕の大好きな岸見一郎先生の話を思い出した。
以下『アドラー心理学入門』より抜粋引用。

**************************************
姑との結婚以来の恨みつらみを晴らそうとカウンセリングに来た人に、カウンセラーはこう言いました。「いいですか、この一週間の出来事を話してください。一週間より先は存在しませんよ」と。このカウンセラーの発言に拍子抜けしたかに最初見えたクライエントでしたが、このような見方をカウンセラーに与えられ、このことがすでに大きくカウンセリングを前に進めることができました。

一週間前どころか昨日すら存在しないと考えてみると、たしかにこの人は、嫌なことを言ったかもしれないが、しかし今日同じことをこの人が言う、あるいはする、とは限らないわけです。そう思って付き合い始めます。そうすると、思いもかけない発見があります。

そのように思えて初めて、その人との時間は死んだものではなく、生きたものになります。今日という日は、昨日の繰り返し、延長ではないのです。
**************************************

昨日の自分にレッテルを貼り、
そのレッテルに矛盾しないように行動してしまう
という、おかしなことがよくある自分に気づく。

けれど2015年になった瞬間に、
全てではないけれど、
いろんなレッテルがリセットされて、
それに代わる新しいレッテルが元旦から貼られはじめたような、
そんな感じがある。
新年の力か思い込みか、
つまりプラシーボ効果なのか、
原因は知らないけれども現れている結果はただありがたい。

そのレッテルリセットのタイミングを、
月替わり、週替わり、日替わりの単位まで、
縮めていくことをしばし目標にして日々を送りたいと思う。

ありがとう。
新年という節目に感謝の日。

 
by KazuFromJP | 2015-01-03 20:55 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
リビングでオモチャを広げて子どもが遊んでいた。
夕食の時間になって片付けなさいと言ったが、片付けない。
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そのとき、「自分が遊んだオモチャなんだから自分で片付けなさい」
と、言ってはいけない。

再度、『嫌われる勇気』の著者岸見一郎先生の講演より。
 

アドラー心理学には、「課題の分離」という考え方がある。
「リビングにオモチャが散らかっている」
これは誰の課題なのか?
 
すなわち、リビングが散らかっていて困るのは誰か?
困るのは子どもではなく、
夕食の準備ができない親のほう。
つまりこれは、親の課題。

      ◆

では、どういうアプローチを子どもにすればよいのか。
以下、岸見先生の息子さんが3歳の頃の実際のやりとり。
岸見「そろそろ私たちは夕食の準備がしたいので、
   散らかっているオモチャを片付けていただけたら嬉しいのですが、
   いかがでしょうか?」

あくまでも困るのは親のほうなので、
子どもに片付けてもらえるようお願いをする。

息子「やーだよー」
岸見「じゃあ、お父さんがオモチャを片付けてもいいですか?」
息子「いいよ」

と、そこで岸見先生がオモチャを片付け始める。
それを見ている子どもは何を学ぶのか。

子どもはそこで、
「ああ、自分が散らかしたものじゃなくても、お片付けしていいんだ」
ということを学ぶ。

      ◆

子どもは、「大人から言われた言葉」からではなく、
「大人のやっていること」から物事を理解して学んでいく。
常に、「このことから子どもは何を学ぶだろうか」
ということを考えながら行動することが大事だと
岸見先生は言う。

      ◆

上記の話でも、
「子どもに片付けてもよいか」許可を得る前に
大人が勝手に片付け始めてはいけない。

大人が勝手に片付けてしまうと子どもは、
「無責任」というものを学ぶ。
「オモチャを出しっぱなしにしていても、
 誰かが勝手に片付けてくれるんだ」
という風に理解する。

      ◆

「自分が散らかしたものじゃなくても、片付けていいんだ」
ということを学んだ子どもは、
人が散らかしたものや、落としたゴミなどを、
気がついたら自然に拾ったり片付けたりできるようになる。

岸見先生があるお宅を訪れたとき、
キッチンのテーブルの下にスプーンが落ちていた。
別の日にまた訪問したら、同じところにまだスプーンが落ちていた。

その家では、
「出したものは出した人がしまう」
「落としたものは落とした人が拾う」
という文化ができていて、
みんな自分が落としていないから、
スプーンが気になっても拾おうとしない。

毎日心の中で、「誰が落としたんだ?」
と気にし続けるくらいならさっさと拾ってしまえばいいのに、
そうなってしまう。

アドラー的に言えば、スプーンが落ちているのは
「落とした人の課題」ではなく、
「落ちていることが気になる人の課題」となる。

      ◆

だから、リビングにオモチャが散らかっている状況では、
親が子どもにお願いして片付けてもらう。
片付けてくれなかったら、
許可を取った上で親が片付ける。

「片付けないと、ごはん無しよ」
みたいに大人の権力を使って賞罰教育をしてはいけない。
無理に規律を守らせ、子どもの自立を促そうとした結果、
結局賞罰教育の縦の関係においては、
依存から抜け出せずに、むしろ自立を妨げることになる。

      ◆

会社の従業員教育なんかでも、
賞罰教育をよくやってしまうけれど、
結局は依存関係を助長して指示待ち社員が増えるだけ。
全ての人間関係において横の関係で接することが大切だと、
岸見先生、そしてアドラーは言う。

なるほどなあと、
3ヶ月前の講演を思い出して自分で書きながらも、
ただただうなずくばかり。

      ◆
 
ありがとう。
アドラー先生、岸見先生、岸見先生の息子先生、
先生たちに感謝の日。

 
by KazuFromJP | 2014-10-30 18:18 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
Facebookに記事を書くと
早いレスポンスや承認や反論反響多くいただけることもあって、
最近はそちらに浸りがちになってしまっていたけれど、
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このブログが僕のベースだと決めているので、
Facebookに書いたもので自分でも改めて読み返したいものを
転記してまとめておきたいと思う。

      ◆

今年7月に、メンタルコーチの平本あきおさんの赤坂のスタジオで、
いま話題のベストセラー『嫌われる勇気』の著者岸見一郎先生と、
平本さんお二人の対談講演が開かれて、参加してきた。

『嫌われる勇気』は、昨年12月に手にとって以来、
今でもずーっと読み続けている、本当に愛着のある本。
岸見先生は京都の方なので
東京での講演は稀少で、一度お話をお聴きしたいと思っていたところで、
平本さんが開催してくれて本当に心より感謝。

以下その中で印象深かった岸見先生のお話より。

      ◆

保育園で保育士が、一人でボタンを付けられた子に、
「○○くん、すごいねー! ひとりでつけられたねー!えらいね」
と、ほめてはいけない。
「ほめる」は、承認欲求を満たす行為なので、
ほめられた子は、ほめられたい為に一人でボタンを付けるようになる。
が、先生が見ていないところでは一人でやらなくなる。
「先生見て見てー」
となる。
 
      ◆
 
アドラー心理学は「承認」的アプローチを否定し、
「勇気づけ」的なアプローチを勧める。
前述の場面で言えば、
「○○くん、ありがとう! ○○くんがひとりでボタンつけてくれたら、
 先生ほかの子のお世話ができて助かるわー」
というのが勇気づけ的なアプローチ。
勇気づけを受けた子は、
「自分がひとりでボタンをつけるという行為は、
先生の手を軽くしているんだ、先生の役に立っているんだ」
と理解する。
その結果、保育士が見ていない場面でも、
ひとりでボタンをつけられるようになる。

      ◆
 
ほめるという行為には必ず上下関係が生じる。
勇気づけという横の関係を築くほどに
人生は豊かになるとアドラーは言った。
大人の社会でも同じで、
現代の日本人はほめられたい、承認されたい大人が多いと
岸見先生は言っていた。
「ほめられたい」=「絶対的権威の下に置かれたい」
という気持ちの表れで、依存関係から抜け出せなくなる。
 
それは日本の賞罰教育(良いことをしたらご褒美・悪いことをしたら罰)が、
深く起因しているのだろうとのこと。
深く納得させられた。
 
      ◆

ありがとう。
岸見先生、平本あきおさん、アルフレッドアドラー感謝の日。
 
by KazuFromJP | 2014-10-12 11:01 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
自分が大好きなものや、憧れの人は、
100パーセント穢れなき光であると信じたいものだけれど、
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光があれば必ずダークな部分があって、
ダークな部分を見ようとしなければ、
やがて自分が闇に飲まれていることに気づけない
と、教わった。

見たくない自分の心の中の、キレイじゃない部分も、
この世界のダークサイドも、
批判否定することなくただその存在を感じて、認識すること。

陰陽のバランス。


東京都庁45階の展望台から見える景色に背を向け、
足元の床にレンズを向けてみた。
自分が知らずに踏みしめていた世界、
知らずに支えられていた世界の存在にひとつ、
気づけた気がした。


ありがとう。
この世界の、陰を支えている存在たち。
同じく僕の心の、ダークサイド。

この世界の、ダークサイド感謝の日。

悪くない。
by KazuFromJP | 2014-08-12 17:53 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
映画『降りてゆく生き方』公開5周年記念公演に、
果てしなく田んぼが広がる千葉県神崎町まで行ってきた。
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主演の武田鉄矢さん、「奇跡のリンゴ」で有名になった木村秋則さん、個人的な知人であるフィトセラピストの池田明子さんなど19名の豪華ゲスト陣が登壇されて、「降りてゆく生き方」というテーマのもとに、7時間に渡って語られた濃密な公演。

中でも個人的に一番印象に残ったのは、
「べてる家」理事である向谷地生良さんのお話。

      ◆

「べてるの家」とは、北海道浦河町にある精神障害者の活動施設で、
そこで精神障害者の方々は暮らしつつ、働き、療養している。

そして「べてるの家」は地域に根付いていて、
浦河町に住む方々も、
精神病の方々の突発的な行動に対する最低限の対処法をみな
心得ているのだそう。

突然道端で寝だす人がいても、
車に引かれないよう端に動かして、
風邪を引かないよう何かかけてあげるなど。

      ◆

たびたび「べてるの家」を訪れているという武田鉄矢さんが、
向谷地さんを差し置いて、どんな場所なのか熱く語ってくれた。

以下特に印象に残ったこといくつか羅列。

●『べてるの家』で言われてること、”勝手に治すな自分の病気”
→お医者さんとの関係だけで精神病が治ってしまったら、
 その後性格悪くなる。
 みんなの中で一緒に治せたら、
 その後性格が良くなるということらしい。

●「幻覚妄想大会」なる催しが開かれ、
 全国から毎年400人集まるらしい。
→一番感動的な妄想を言った人が勝ちとのこと。

●べてるの人に「武田さんも幻覚見るでしょ?」と言われ、
→とりあえず合わせて、
 「高3の時に坂本龍馬に会ったよ」
 と言ったら、
 「そりゃあ重症だー」
 と笑われた。

●人間、一回病気にならないと、
 本当の意味で健康にはなれないのではないか
→病気になることは不幸なことではなくて、
 それをどう活かせるかということが問題。
→「病気でもいいんだ」
 「何でも話していいんだ」
 という伸びやかさの中に、本当の健康があるのではないか。
 むしろ「人は病気になれる」ということに価値があるのではないか。

●「お前らキチガイの存在で町のみんな迷惑してるんだ!」と
 怒鳴りつけてきた近所のおばあさんがいた。
→おばあさんが去った後、
 「理解してくれない人もいるんだなあ」と武田さんが思っていると、
 隣にいた患者さんの一人が、
 「実は今、あの人が一番の重症患者なんです」
こっそりと言った。

      ◆
 
ちょうど今、個人的に認知行動療法を学んでいるせいか、
それらのエピソードがとても温かく心に響いた。

自分の心の中で起きていることに気づき、
認知する視点が持てたら、
その経過を、安心して見守ることができるようになる。

「自分の感じている世界」がこの世界の客観的真実だと信じているうちは、
幻覚や幻聴を信じて疑わないことと同じであり、
たとえ幻覚を見ていたとしても、
幻覚を見ている自分を観察する視点を得ることができたなら、
外の世界へと繋がる扉が開くのだろうなと、
そんなことを考えさせられた。

      ◆

きっと、あらゆる健康法も、
環境問題も、原発問題も、国際問題も、
働き方も、恋愛観も人生観もすべて、
自分が信じているものは他者から見たらすべて幻覚だという視点を、
常に持てるということ。

その上で、自分が信じたいものを選択すること。

そのことを、健康や感情が揺らいだときにも忘れないように、
心に留めておきたいと思った。

ありがとう。
降りてゆく生き方感謝の日。
今日は62点。

 
by KazuFromJP | 2014-06-23 13:38 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
最近熱いものと言えば相変わらずのハインツ・コフートとそれに加えてアルフレッド・アドラーなのだが、人の心、とりわけ自分の心の観察と言うのは面白いものだなあと感じる毎日を送っている。
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もう一ヶ月前だけど、読んで面白いなあと思って
facebookにシェアして考察した記事を
ここでもシェアしておこうと思う。
こちらが元の記事↓



リンク先を自己解釈でざっくり要約してみる。

① 2つの思考態度がある。
「固定された思考態度」と「成長する思考態度」

② 「固定された―」の方は、
現在持っている能力は先天性のものととらえている。
だから、才能を証明したいと思い、
高い評価を得られるところに力を注ぐ。
「成長する―」の方は、
現在の能力は伸ばしていけるものととらえている。
だから、新しいものを吸収したいと思い、
チャレンジすることに力を注ぐ。

③ 10代の少年少女をAとBの2グループに分けて実験をした。
IQテストを受けさせ、2種類の方法で褒めた。
各グループの褒め方は以下、
A「わあ、△点も取ったの、いい点ね。あなたは頭がいいわ」
B「わあ、△点も取ったの、いい点ね。よく頑張ったわ」
というもの。

Aは「固定された思考態度」によって子どもの才能を褒め、
Bは「成長する思考態度」によって子どもの努力を褒めた。

次に難易度の異なる2つの問題を用意して、
子どもたちに解きたい問題を選択させたところ、
才能を褒められたグループの多くは難しい問題を避けたが、
反対に努力を褒められたグループの多くは難しい問題を好んで選択した。

さらにどんどん難しい問題を与えるにつれて、
「固定された思考態度」のグループはやる気を失っていったのに対し、
「成長する思考態度」のグループは難しくなるほど楽しんでいた。
 
 
***要約以上。以下、個人的所感。
 
この2つの思考はきっと誰の心の中にも両方それぞれあって、
その都度その割合が、1:9だったり5:5だったりするのだと思う。
自分自身の中でも、自分の才能を信じられる分野と、
自分の努力に自信がある分野がそれぞれあると感じている。

記事では、「成長する思考態度」の長所を並べているけれど、
たぶん両者に長短それぞれあるのだろうと思った。

ただ、「成長する思考態度」寄りになっている方が、
日々ハッピーだろうなと感じた。

リンク先、ドキッとした言葉↓

***********************
博士によると、学校の中や社会の中、人と人の関係の中でも、結果を証明しようとする人は多くいるそうです。彼らは自分の持っている能力や素質は限られており、自分の知性や人格がどんな状況でも評価対象にあると考えているため、「自分は失敗しているか、成功しているか?」「賢く見えるか、バカに見えるか?」「受け入れられているか、排除されているか?」「勝者か、負け犬か?」ということに重きを置いてしまいます。
***********************
「成長する思考態度」のグループは「一生懸命やっている時の成功は自分を高める」と考えますが、「固定された思考態度」のグループは「成功は自分の卓越さを証明するものであり、偉大な人になることは無名であるよりも価値のあることだ」と考えます。
***********************


Facebookなどはこの辺が顕著に出てしまう怖さがあるけれど、
怖いと感じる時点で思考は「固定」寄りになっているのだろうと思った。

人に対して能力の証明にも使えるし、
人との関係の中で能力の成長にも使えるし、
楽しければどっちも、それぞれいいんだろうと思った。
Facebook、素晴らしい。いいね! 

最後、いいなあと思ったリンク先の結び↓

***********************
後退なくして達成がないように、素晴らしい人間関係には問題や争いが必ずあります。しかし「完全さ」を重視する人々は争いが起こると多くの場合、相手の性格に欠点があるとして相手を責め出します。そして相手をさげすみ、相手との関係そのものを不満に思う傾向にあるようです。一方「成長する思考態度」のグループは相手を責めず、欠点を認め、欠点があっても自分たちは十分な関係にあると考えます。彼らにとって争いの原因はコミュニケーションの問題で、相手の性格上の欠点ではないのです。
***********************

才能があるふりをするより、たくさん間違えて成長を楽しもう。
自戒。


ありがとう美しい、この世界。
成長する考え方感謝の日。
今日も40点。
味わいライフ。




by KazuFromJP | 2014-03-16 13:09 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
謎の老人「真に賢い人間は、『自分にとって何が一番大切なのか』を知り、『その一番大切なものを大切にするためにはどうすればよいのか』を考える。一番大切なものを一番大切にするためには、目標や計画を修正しなければならんこともある。それも勇気が必要じゃがな」
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僕にとって、
「どんな風に生きたかったんだっけ?」
とふと思ったときにいつも戻ってくる場所。
そんな本。
以下も本文より。

謎の老人「人はみな繋がりを求めておる。しかし、人から認められることで繋がりを得ようとすれば、人の価値観に振り回され、結局は人を敵にしてしまう」

謎の老人「君を怒らせていたのは、その黒木という社員ではなかった。君の中の怖れが、君を怒らせていたのじゃ。寂しさや、不安を感じることへの怖れがな」

謎の老人「怒りが湧いてきたときは、それが怖れから来ていることを思い出し、『自分は今、怖れているんだ』と認めることじゃ。その時点で、君は怒りに支配されにくくなる」

謎の老人「人は、自分のことを変えられたくはない。わかってほしいのじゃ。尊重してほしいのじゃ」

謎の老人「執着愛とは、怖れと愛が入り混じったものじゃ。相手の幸せを願いながらも、『相手の感じ方を信頼すること』への怖れがあるのじゃ。この怖れが、『自分の思い通りに相手をコントロールしなければ』という執着愛を生むのじゃ」

謎の老人「賛同する必要はない。大切なのは、相手が自分と違う感じ方や考え方をすることを尊重することじゃ」

謎の老人「いま自分が感じていることを尊重し、自尊心を自分で満たすのじゃ」「自分と家族を愛せない者が、どうしてほかの人々を愛せようか」

謎の老人「愛を抑えてしまうのは怖れじゃ。『後世に残るこの世界最大の悲劇は、悪しき人の暴言や暴力ではなく、善意の人の沈黙と無関心だ』とキング牧師が言っておる」

謎の老人「『他人のことまで気にかけていたら、自分の幸せが離れてしまうのではないか?』『競合他社が潤ったら、自分の会社はやっていけないのではないか?』怖れとは、君が作り出した創造物に過ぎん。君がつくったのだから、君は捨てることもできる」「怖れという服を脱ぎ捨てれば脱ぎ捨てるほど、君自身の内部から発せられる愛が、表に出てくるのじゃ」

そうそう。そうだったそうだったと思い出す。
自分にとっての、心のリセットルーム。
人それぞれあると思うけれど、
そういう本があることに今日も感謝。
ありがとう。




by KazuFromJP | 2014-01-26 12:42 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)