カテゴリ:人間学実践塾・ユング心理学など( 36 )
いろんなことに一区切りがついて、
この3日間ほとんど何もせずに過ごしていた。
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何もせずではなく実際は、
インターネットで検索ばかりしていた。
インターネットの情報の世界に潜り込んでいくと、
すごい人がこの世界にはたくさんいることに改めて気づかされるわけで、
情報に埋もれていく中で無意識に、
自分の存在価値に疑問を抱いたり、
自分にとっての存在意義が揺らいだりする。

それによって気分は浮き沈みする。
何かしなきゃなとか思いつつも、
自分にその「何か」ができるのか疑わしく思う。

      ◆

それは結局自分が未熟なわけなのだが、
実際に未熟なのはその
「何かができる」「できない」の能力ではなくて、
ある「思い込み」によって振り回されている自分の精神の未熟さなのだ。

たとえば、
「みんなが理解できていることは
自分も理解しなければならない」
という「思い込み」がある。

それが「思い込み」だと、以前先生に言われて気がついた。

無意識に、所属しているコミュニティにおける平均以上を目指して努力し、
そこに自分の居場所を確保して安心を求めてしまう。

努力もいい。安心もいい。
けれど、その裏に強迫観念みたいなものがいつも付きまとっているなら、
少しずつ何かを変えていきたいと思う。

      ◆

人と比べて「すごい人」になれたらカッコいいだろう。
けれども、
比較する相手がいなければ自分の能力が測れない
わけではないだろう。

だからと言って、
自分のある能力を伸ばしたいときに、すべてを、
他者と比較することなく向上させていくことはきっとできない。

大切なことは、自分が何者を目指しているのか、
仮に決めることだと思った。

      ◆

12時間眠り続けた日、
インターネットに浸り続けた時間、
人と関わらなかった一日、
それらの時間に低評価を下そうとする
世間一般を代表したがる自分がいる一方で、
それらすべてが大切な時間、大切な過去だった
として味わいたい自分もいる。

どっちも大切な自分で、どっちかが悪者ではない。
それでいい。

そこで大切にしたいのは、
いつでもどこでもその瞬間から、
「これからどうするか?」

      ◆

いつでも僕たちは、たくさんの経験・選択を、
バラバラと積み上げた積み木の山の上にいる。

いびつでも何でも、積みあがったものはもう仕方ない。
多少形を整えるのもいいけれど、ても結局考えることは、
「次の一手をどうするか?」

シンプルに。

ありがとう。
今日も感謝の日。
そして毎日味わいライフ。
 
まあ何でもいいか。
生きてるし。
 


by KazuFromJP | 2016-11-26 05:36 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
何だかなー。何なんだろなー。と考えていた。
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何なのかわからないがここ数日、
身近なはずのいろんな人たちと、
距離があるように感じていた。
で、今日ふとある言葉を思い出した。

「この人に、すべての良きことが、雪崩の如く起きます」
斎藤一人さんの言葉。

斎藤一人さんが出会う人に片っ端から心の中でつぶやいているとのこと。
9年前、自転車旅行をしていた頃に僕は斎藤一人さんにハマっていて、
旅の最中にこの言葉を心の内で唱えながらあちこち回ったりしていた。

実際イヤな人もいるけれど、この言葉を心の内で唱えていると、
イヤな人のその「イヤ度」は、一時的にでもなぜか必ず下がる。
そして自分の表の態度も、
頑張って良く振舞おうとしなくても、自然に変わった。

      ◆

時が流れてそんな魔法の言葉を知ったことも、
それを体験して実感していたことも、いつの間にか忘れていた。

でもまあ、思い出した。
しばらくこの習慣を続けてみることにする。
傍から見れば変な宗教みたいな行為だけれども、
それで自分も周囲も安息を得られるならこんな手っ取り早いことはない。

      ◆

先月発売の『幸せになる勇気』の中で、「三角柱」の話が心に残った。
カウンセリングで哲人(岸見先生)がしばしばある三角柱を使うという。
三角柱の三面にはそれぞれ言葉が書かれていて、
「悪いあの人」「かわいそうな私」そして、「これからどうするか」
という3つの言葉が各面に書かれている。

クライアントの多くはまず、
「悪いあの人」か「かわいそうな私」を語ることに終始するけれど、
三角柱を彼らに渡し、
これから話す内容の面を、こちらに向けて話してくださいと伝えると、
大半のクライアントが、
「これからどうするか」の面をカウンセラーに向けて、話し出すとのこと。

「悪いあの人」「かわいそうな私」をいくら話しても、
一時的に気持ちが楽になるかもしれないけれど、
根本的な解決にはならないとのこと。
だから哲人(岸見先生)は、
「これからどうするか」を、
カウンセラーとクライアントで共に考えていくことだけに集中するとのこと。

      ◆

みんな昨日まではまあ、いろいろあったかもしれない。
けれど、「これからどうするか」
に集中するならとりあえず差しあたって今の僕なら、

「この人に、すべての良きことが、雪崩の如く起きます」

と道端ですれ違う人、電車で乗り合わせた人、
職場で出会った人、テレビに映ってる人、
に対して、心の内で唱えることから始めてみようと思う。
淡々と。

      ◆

斎藤一人さんや竹田和平さんが、
「ありがとう」を百万回唱えれば幸せになれるとか言ってたのを聞いて、
以前は、まあたぶん引き寄せ的な力が働いて
実際幸せになれるんだろうけれど、
そんなことで幸せになれても面白くないんじゃないかとか思っていた。

けどそれは、
サクセスストーリー的なものに憧れを抱いていた自分があったからで、
何か仮にいろいろうまくいったとして、
成功の秘訣は何ですか?と誰かに訊かれた時に、
「『ありがとう』と唱え続けることですよ」
なんて回答をする自分はクールじゃないよな、などと妄想していた。

けど今は、目指すところが変わって、
ただ、シンプルに
”「今これからどうするか」だけの人生”に魅力を感じている。

      ◆

自分の人生をゲームにしようとしてきた僕は、
就活の延長でこのゲームを始めていた影響もあり、
人に語るための人生を生きてきた。
即ち、面接官に対して、
「自分はこんなすごい経験をしてきました!」
と語るための人生を。

けど人に語ることや見せることを捨てたら、
このゲームは一気に深みを増していくように思う。

何度かこれまでもそのことに気が付いてきたけれど、
まだまだ面接官を完全に切り捨てきれてはいないし、
今この瞬間「はい切り捨てました」と言えるほどすぐに
変われるものではないかもしれない。

けど何にしても、
地道に淡々と、
「これからどうするか」をことあるごとに問い続け、
とりあえずは、
「この人にすべての良き事が雪崩の如く起きます」
と心の中で唱え続けることをひたむきに続けていきたいと思う。

      ◆

実際それで何がどうなるかはわからないけれど、
たぶん面白い何かになっていくのだろうと思うからやってみることにする。

アドラー心理学の深みに触れ、偏った心の分析に魅せられて、
分析癖が前面に出すぎて冷めていた僕の心もそれによっていくらかは、
分析から離れて、岸見先生の言う「他者への関心」に近づけるような気がする。

      ◆

ありがとう。
今日も感謝の日。
あなたにすべての良き事が雪崩の如く起きます。
実際起きるかどうかは保証できませんが少なくともそう、
願っています。



by KazuFromJP | 2016-03-16 05:09 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
わからないことをわからないと言いたい。
自分を大きくも小さくも見せずにありのままでいたい。
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人によく見られようと頑張っていると
現状の自分の本当のレベルが見えなくなっていく。
他者に過大評価を与えるように振舞うと、
心の内では時に自分で自分に過小評価を与えていたりする。

自分の有能性と至らなさと、
双方を正しく認めたうえで、
自分に見合った次なるステップに足を掛けたい。

      ◆

ふつうに過ごしていても他人は自分に
勝手な評価を与える。

それによって自分の評判は上がったり下がったりするけれど、
自分の能力は上がりも下がりもしない。
モチベーションが上がったり下がったりするだけだ。

「虚栄の自分」から抜け出して、
「真実の自分」の姿と共に自分が望むステップを一段一段上がりたいと思う。
それは別に聖人君子になる為ではなく、
そのほうが間違いなく成長が早く、
自分の求める能力や理想の姿に到達する近道だろうから。

      ◆

以下、今月読み返している『フランクルに学ぶ』(斉藤啓一・著)より

自分の存在を脅かしそうな「敵」は、完全に抹殺しない限り安心できないだろう。徹底的に無力化しなければ、不安で仕方がないだろう。その結果がホロコーストであり、強制収容所の徹底的な人間性の否定だったのである。
だが、強制収容所が否定した「人間性」は、真の人間性では決してなかった。それは単に「虚栄に満ちたニセの自分」に過ぎなかったのだ。それゆえ囚人たちの中には、もはやいかなる恐怖も超越し、「神の他には何も恐れない」ほどの勇気、真の人間性を確立した者がいたのである。それはまさに、「誇りに満ちた真実の自分」だったのだ。
斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)
学校でも会社でも、テレビでも新聞でも、
他者より優れていることの価値を絶賛するため、
自分の理想を思い描く際にもついつい、
他者より優れた自分であるようにイメージしてしまいがちになる。

他者より優れているかどうかの評価は他者が判定してくれる。
そうして自分の生き方を他者の目線に合わせることになる。

他者の評価基準は、ホロコーストと同じ。
評価するその誰かにとって、
存在を脅かさないかどうか。
その誰かにとって有益な存在かどうか。

     ◆

しきりに議論されている政治問題も社会問題も、
交わされている言葉の多くは、
各人の潜在的な恐怖から出ている言葉ではないかと
感じてしまうことがしばしばある。
(単に自分の心を写しているのかもしれないが)

何とかそこに染まらずに、
優劣を争う議論から抜け出して、
「虚栄に満ちたニセの自分」とは遠いところで
理想の自分を追いかけたい。

そのために、
わからないことはわからないと言いたい。
わかったフリはしたくない。
デキル人間のフリもしたくない。

「わからないということ」も、
「現状知識や能力が足りていないこと」も、
人間性の優でも劣でもないのだから。

      ◆

わからないことを認められる者同士で、
純粋な成長を求められる者同士で、
フランクルの言う「誇りに満ちた真実の自分」に
日々一歩ずつ、向かっていきたいなあと思う。

でもそれが難しい。
それらを言葉でわかったつもりでも、
やっぱり他者にほめられると嬉しいから。

だからこそ意識して、
自分がわからないことやできないことを、
「わからない」「できない」と積極アピールしておくことで、
つけ上がることを少しでも自ら防止できるのかもなと思う。

      ◆

ありがとう。
わからないこととかできないこととか、
それらを分かち合える仲間とかに感謝の日。
 
 




by KazuFromJP | 2015-10-28 00:40 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
起きる問題の多くは、個人レベルであれ、国家レベルであれ、
何かが足りないのではなくて、
何かが余分なのだと思った。
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少なくとも、自分にとっては―。

久しぶりに、ネポ先生の言葉を借りたい。
ココヤシの実に、ちょうどサルの手のひらが入るくらいの穴を開け、そこから中身をくりぬきます。そして、中をくりぬいた実の中に米を入れ、サルの通り道におきます。

をのうち、腹をすかせたサルが米のにおいをかぎつけ、実の中へ手を入れます。しかし、米をつかんだら、手は穴から抜けなくなります。そうして、米を手ばなさないと、サルは捕まってしまうのです。

米を握りしめているかぎり、サルは自分で自分をとらわれ者にしています。ワナが有効なのは、サルが米を手放すことができないからです。

この話は、深い真実を暗示しています。私たちも常に「自分にとっての米とは何だろう」「握りこぶしを開き、米を手放すのを妨げているのは何だろう」と問いかけてみる必要があります。

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(マークネポ・著 野口嘉則・訳 『自分を変える心の磨き方』より)




何かうまくいかない問題に直面する時、
良い解決法はないかと模索する中、
ついつい足し算で考えてしまいがちだ。

例えばココヤシの実から手が抜けない自体に陥った時、
穴をムリヤリ削って大きくしようとしたり、
腕を振り回してみたり、
手に潤滑油やせっけんを塗ってみたり、
ココヤシの実を割ろうと叩きつけてみたりというようなことを
いろいろ試してうまくいかない。

ぶち当たった「壁」や「敵」の攻略する手立てばかり考えて、
握りしめている自分の手に目が行かない。
そういった場面が、往々にしてあるような気がする。

      ◆

手放すのは怖い。だから無意識にそこから目を背けて、
代替の解決策を探してしまっているのかもしれない。

人々が抱える多くの問題に於いて、
何かを手放す覚悟、勇気を持てたら、
シンプルな解決へと向かうのだろうと思う。

ただその前に、
自分が米を握りしめていることに気づけなくてはいけない。
つかんでいる事に気づかなければ、
手放す発想が生まれないから。

何か問題っぽいことに出会ったときには思い出したい。
自分が何か、手放せなくなっているものはないか。
しがみついているものはないかないか。
何を怖れているのか。

      ◆

何かを手放す訓練としてここに書いていきたい。

「手放さなければ!」
というように気を張らずに
もっと何となく、こうパッと、
「ちょっと手放してみるか」的に。

ありがとう。
今日はサルと米とマークネポ先生感謝の日。

 
 

by KazuFromJP | 2015-10-25 08:55 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
誰かに読まれる場所に文章を書くという時点で、
虚栄から完全に距離を置くことはできない。
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読んでいただける人にはその観点をどこかに持ちつつ、
僕の劣等感や思慮の浅さに触れていただけたらと思う。

      ◆

日々特別なことではなく、「淡々と毎秒最善の選択」
というのが僕の目指したい生き方だけれど、
実際は最善から何百秒も、
何万秒も遠ざかってしまうことは日常茶飯事で、
だからこそわざわざ言葉にして
自分に言い聞かせながら目指す価値が
僕にとってはあるわけで。

ダルマさん人形が転がって揺られては元の位置に戻ってくるように、
不定位な気持ちがゆらゆら中心に集まってくるような辺りで、
心の流れや展望を観察していた。

      ◆◆

2009年から学んできた人間学実践塾の課題図書で、
『フランクルに学ぶ』(斉藤啓一・著)とのご縁をいただいてから、
僕の人生におけるお気に入りの一冊になっている。

今月改めて読み返していると、
過去6年間にに書き込みした様々な自分と出会うが、
過去の自分たちが素通りしていた箇所にまた次々目が止まり、
何年もかけて繰り返す読書は面白いなと改めて思う。

新しく傍線を引き、日付を書き入れた。
下記その辺をちょっと引用。

すなわち、ホロコーストとは、人間の根源的な差別意識の現われではなかったのだろうか、ということだ。

差別とは、自分を他者より優位に立たせようとする行為である。その根底にあるのは、おそらく自己保存の欲求であろう。この自己保存の欲求から、他者から侵害されるのではないかという恐怖が生まれてくるわけだ。

その恐怖にかられて、敵から襲われないように力をつけようとする。あるいは、力があるように見せかけよう(威嚇しよう)とする。

これが、自分を優位に置こうとする根本動機ではないのか?
これが、虚栄心や差別の根源ではないのだろうか?

(中略)

要するに、虚栄心も差別意識も、恐怖に対する防衛的態度の現れなのだ。虚栄によって人を見下し、虚栄心も差別化する根本動機は恐怖なのである。


(斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)


      ◆

仕事をしていても、買物をしていても、何かの講座の場面でも、
従業員・客、講師・生徒問わず、
相手を威圧しようとする態度が垣間見られることが多々ある。
威圧の態度だけでなく、
ニコニコしながらも必要以上に
自己の能力をアピールする姿に出会うことがある。

プンプンしていようがニコニコしていようがたぶん
その態度の動機は近いところにあって、
何がしかの能力の有無に関わらず、
能力を必要以上に見せつけることで、
自分を優位に置こうとしているのだと思う。
自身にも痛く思い当たる節が多々ある。

そこにあるのは劣等感からくる恐怖心で、
そのおおもとは、フランクルのいう
自己保存の欲求なのかもしれない。

      ◆

そういう仕組みについて考察しているマニアックな人間でも
無為自然で生きているような人でも
流されるままに生きている人でもみんなきっと、
自己保存の欲求はあるから、
誰かが不意に威圧してきたらまた、
それに対して防衛反応が起こって、
各人の心の特性に合った防衛行動に繋がっていく。

自分はさらに上だぞとアピールするように相手を威嚇したり、
ニコニコして仲間ですよとアピールしたり、
表情を変えずに何事もなかったように見せたり、
受け流した後で、自分の心の中で昇華したり。

      ◆

他者が不意に自己の優越性をアピールして攻めてきた際の、
聖人君子的な最善の選択は、
相手自身の中にある恐怖と欲求を察知した上で、
相手の欲求を満たすように虚栄の茶番に付き合い、
劣等者役として徹することだろうと今の僕は考察する。

ならばいつでも淡々と劣等者役になれたら
淡々と最善の選択の実践者になれるわけだけれど、
なかなかそうスムーズはいかない。
その理由は恐らくこうだ。

虚栄と誇りはもちろん違う。虚栄を満たすには他者を必要とするが、誇りは他者を必要としない。誇りとは、他者ではなく自らを征服した者の、内的な真の自信なのである。

(斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)


相手の欲求を満たすように虚栄の茶番に付き合い、
劣等者役として徹してやろうとすることでまだ僕は、
相手の上に立とうとしている。
相手を見下す「虚栄」から脱却できていないこと故に、
自分の優越性を見出してくれる誰かを求めている。

      ◆

しかし聖書や経典の役割が恐らくそうであるように、
このフランクルや斉藤啓一氏の言葉が、
内的な他者となり得れば、
それを僕自身の誇りへと育ててゆける。

そういった角度から見れば、
聖書や経典は、
ただの印刷物であるところにとても価値があるように思う。

虚栄から脱却しようとして、
急に内的な誇りに基づいて行動しようと試みても、
生身の人間の多くは評価を与えてくれないわけで、
心が折られてまたすぐ虚栄へと向かってしまいがちになる。

しかし聖書や経典と同様に、
自分が見出さなければ何も応えてくれないという意味で、
本や、過去の偉人の言葉や行為は、
「誇り」へと向かおうとする心が折られそうな場面で、
いつでも支えになってくれる。

『フランクルに学ぶ』という本に触れることで、
僕はその支えを実感することができた。

聖書を枕元に置いて生きている人にとってはきっと、
この感覚が日常なのだろうと、聖者たちに想いを馳せた。

      ◆

虚栄社会が向かう理想は恐らく、
ギブアンドテイクの褒め合いに至り、
それはそれでほどほど心地良いかもしれない。

でも想像してみるとどこか、
世界全体のバランスがおかしいというか、
不安定な空気が思い浮かぶ。

それはたくさん並べた大小異なるダルマさん人形の上に、
ガラスのプレパラートをいくつも渡すように並べている感じ。
ダルマさん同士は直接ぶつからないが、
プレパラートの重みと角度によって傾けられたダルマさんは、
他のダルマさんに向かって傾いたまま止まってしまう。

そんなガラス板を全て取り去って、
ダルマさん同士で直接ぶつかり合えば、
表面的な衝撃は大きくなるけれど、
その度にゆらゆら互いに揺られてやがて、
自分の中心軸に戻っていく。
その中心軸が、他者を必要としない「誇り」かなと思う。

プレパラートのない関係に想いを馳せて、
日々自分の劣等感と向き合いたい。

      ◆

僕の書く文章が「誇り」に拠るものでも「虚栄」に拠るものでも、
それを受け取る誰かにとっては恐らくどうでもよい問題で、
多くの人は、自分の内なる問題として受け取るはずだと僕は考える。

単に他者に優劣を付ける行為であっても、
結局は自分の中にある「優」と「劣」の
とある指標からの距離を測っているわけで、
自分の中の問題に触れていることになる。

だから、虚栄に拠る僕の文章であっても、
フランクルや斉藤啓一氏の残した文章や生き方が
僕の誇りを支えてくれるように、
読む人それぞれが、自身の中に新たな価値を発見する
何がしかの種にでもなればいいと思いつつブログを続けてゆく。

自身の中では、優劣や勝ち負けのレベルを超えて、
また、時間や場所も越えて、
誰かと何かを共有できたら楽しいだろうという気持ちで
ここに今、この瞬間の軌跡を残してゆく。

      ◆

今日もありがとう。
フランクル博士、斉藤啓一氏、僕の中の誇りや虚栄に感謝の日。
いまここに在る場所と時間に、ありがとう。
 
 


 
  

by KazuFromJP | 2015-10-18 09:22 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
「運命に従順に、自由より自然に」
というのが僕のここ最近のテーマで、
静かで穏やかで、健やかで行動的な日々を
密やかに楽しんでいる。
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僕はずっと、「自由」に縛られていたのではないかとふと思った。
自分は自由なんだと―、
自分に―、誰かに―、
証明しようと無意識に気を張って―、
「自由を証明しなければ」
と、目に見えるカタチは自由でも、
結局心は不自由だった。

      ◆

今月僕は誕生日を迎えた。
誕生日の前日、
できることならもう二度と行きたくないなと思っていた場所で、
朝7時から22時まで働くことになった。

行きたくなかった理由は単純に、
個人的に嫌な人が何人もいる現場で、
自分のポリシーに合わない文化が根付いているからだった。
その現場だけはやめてほしいと
司令部に伝えようとしていた矢先のこと。

その仕事の案件が決まったのは誕生日の2日前で、
「そうか、32才の最後に、
この課題をクリアしとけということか」と思い、
その運命に対して、積極的に、心から従おうと考えるに至った。

      ◆

5年前の誕生日を迎える前の一週間、
栃木県にある瞑想の森内観研修所という施設で過ごした。
そこは外界から遮断された森の中で、
ひたすら自分の過去と向き合い続けるという、
リアル「精神と時の部屋」であり、
いろいろ不思議な体験をさせていただいた。

その日々の中で最終的に僕がたどり着いた答えの一つが、
「これからは、他人からの迷惑を積極的に受けて生きよう」
というものだった。

      ◆

それはノブレス・オブリュージュの精神に近いかもしれない。
僕は心理的に恵まれた人生を、
それまで歩んでこられたということをその時改めて感じた。
自分の感情をうまくコントロールできず、
他者や物にぶつけて発散しなければ
バランスを取れない人は大勢いる。
そんな世界の中で、精神的安定を保てている恵まれた自分は、
多少他者から理不尽な扱いを受けたり
罵倒されたり中傷されたりしても、
それらをうまく自分の中で消化する術をある程度身に着けている。

そしてその術を身に着けるに至るまでに、
散々他者に感情をぶつけて迷惑を掛けてきた過去も、
「精神と時の部屋」の中でたっぷり観てきた。

それならば、
これからは自分が他者からの迷惑を積極的に受けることで、
世界は多少なりバランスを取れるだろうし、
そうすることで、散々迷惑を掛け続けてきた僕を、
いつも変わらず受け容れ続けてくれた世界に、
少しでも貢献できるんじゃないかと、
良い子ちゃん的な考えが芽生えたのだった。

それは確かに良い子ちゃん的ではあるのだが同時に、
その使命を自分に課すことがきっと、
自身の幸福感に繋がっていくだろうという確信を
なぜだか感じたのだった。

      ◆

2015年の僕に戻って―、
5年前に聖人君子的な想いを一度抱いてはいても―、
やっぱり僕は人間らしくて、嫌なものは嫌なんだなあと思うのだが、
その今年の誕生日の前々日に―、
運命に従順に生きようと思った瞬間に―、
5年前の瞑想の森で感じた想いが再度、
バージョンアップしてよみがえってきたのだった。

他人のマイナス感情を積極的に受け容れてやろうと、
今一度決心した。
どんなに理不尽な境遇であっても、
その環境の中における最善の行動を毎秒選択し続け、
僕の心は天に向かって開き続けていれば良い。
そう思ったら、
行きたくなかったはずのその現場に行くのがちょっと、
楽しみになった。

      ◆

そうして迎えた32才最後の日、
積極的に迷惑を受け容れ、
淡々と最善の選択を毎秒続けようと臨んだ結果、
長時間労働の中身体の疲労はあったものの、
やっぱり好きにはなれない人たちが笑顔を見せたり、
時に感謝の言葉やねぎらいの言葉をくれたりしたことで、
僕は自分の課題をまた一つクリアできた気がして、
ちょっと幸せな満足感に浸ることができた。

結果として―、
「二度と行きたくない現場」は、
「できればまあ行きたくない現場だな」に昇格した。

      ◆

運命に従順に、自由より自然に生きよう。

自然に流れる川の流れを無理に変えることなく、
大きな世界の流れに従って、
自分の役割を受け容れて
世界の一部として自分の能力を発揮し流れに還元する。
その中に自分なりの幸せを見出す。

そんなことを考えてこの、
僕なりのゲームを密やかに楽しんでいる今日この頃。

誰にも知られることのない、
この地味でエキサイティングなゲームを
(ここに書いてしまったけれど)
明日も続けていきたいというのが僕の生きがい、
生きる意味になりつつある気がする。
 
      ◆

そこには証明も他者からの承認も要らない、
本当の自由があるように感じている。
今のところ。

ありがとう。
今日も感謝の日。
 
 
  
by KazuFromJP | 2015-08-25 03:58 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(4)
どんな喜びの経験も、どんな悲しみの経験も、
それなりに人生の糧になってゆくわけで、
だから苦しんだり楽しんだりしていることを
無理にどうこうしなくてはいけないわけでもなく、
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無理にどうこうしてはいけないわけでもなく、
それなりに生きていけばいいんだけど、そうは言っても―。

できれば心穏やかに毎日過ごしたい。
心穏やかでなくても―、いや、むしろ荒々しい心でも、
何か内側から溢れてくるエネルギーを感じて生きたいと思う。
人はみなそうなんだろうと思っている。

      ◆

そういう世界の見方をするのなら、
人助けの定義も変わってくる。

貧困や、ハンディキャップなんかを抱えて
逆境の中でたくましく生きている人たちよりも、
心にどこか空虚感を抱いて、
内側の歯車がうまく動かせなくなっている人たちに、
潤滑油を垂らしてあげられるような手助けをしたいと思う。

この7月は、希望について考えていた。

      ◆

いま取り組んでいることが、
自分が思い描く何かに繋がっていくだろうという希望。
自分が成長している実感。
社会や人生が好転していくだろうという希望。

飲んだ薬が効いて病気が良くなっていくだろうという希望。
薬を飲まないことで、自分の免疫が高まって、
病気を乗り越え身体が強くなっていくだろうという希望。
どちらでもいい。
どうせ身体はいつか滅び消え去る。

ただ、いまこの瞬間、
心が希望を抱ける行動を起こせているかどうか。
そこがどうなのかどうかでその、
内なるエネルギーだか何だかが変わってくるだろうと思うのだ。

      ◆

心理学も整体も医学も宗教も、
目指すところはそこではないかと思ったりする。
何かにすがってもすがらなくても、
他人に頼っても自分を信じても、
理想の未来を思い描けて、
そこに現在の行動をチューニングできたなら、
人の心は―、人の身体は―、
内側から活き活きとし、エネルギーが湧いてくるだろうと思う。

野球少年が、未来への希望を抱いて毎日素振りを続けるように、
この7月、理想的な未来から現在を
うまくチューニングするよう身辺整理をし、
野球少年に思いを馳せて―、
充実した日々を過ごせたように感じた。

      ◆

5月から、中学生の勉強を見る仕事に携わらせていただいている。
子どもの物事へのモチベーションなどは特に、
希望が抱けるかどうかだと感じさせられる。
野球少年の素振りと同じ。

単語練習も計算練習も、
その単調な行動と、ワクワクするような未来が
チューニングできるかどうか。
そして前に進んでいる、成長している実感が持てるかどうか。

それを見守る大人たちも同じ。
表面的には、いろんな子育ての形があって、
子どもに対する愛の形もいろいろあるわけだけれど、
親たちも、子どもを学校や塾に預けるという行為の中で、
理想的な未来と現在の毎日が、つながっている実感、
チューニングできている実感が持てているかどうか。

子どもと親と教師は、それぞれにそれぞれの未来を描く。
その未来と現在が繋がっている実感がないと、
何かを変えなくてはと思ったりする。
子どもの未来をみんな思い描いているつもりではいるけれど、
実際に描いているのは恐らく、
成長した子どもを通じたそれぞれ自分の未来。

      ◆

そう。だから―。何というか―。
まずは、自分が地に足着けて、
心にゆとりを持って、
未来を思い描いて、
その未来と現在をチューニングして、
一歩一歩、段差の低い、緩やかな階段を昇っていこう。
そう思う。

自分が他人より高いところに昇る必要はない。
ただ、自分なりの希望へと向かう階段を歩き始められたら、
周りの人に気を配る心のゆとりが生まれる。

そうしたら―、
スカイツリーのてっぺんを見上げて呆然としている人の前に、
緩やかに続く螺旋階段のイメージ図と、
階段の1段目になる小さな木箱を、
相手の足元に置いてあげたらいい。

あとは、その人が自由に階段を設計して、
その人のペースで昇っていく。
その人の心に芽生えた、希望が続く限り。

      ◆

大人が大人なのは、
螺旋階段のイメージ図を自分で手に入れることができることだ。
子どもは親も先生も選べないが、
大人は師事したい先生なり学びたい学校なり本なり、
お金やそれを作る時間は要するかも知れないけれど、
自分の力で探してたどり着くことができる。

だから大人の僕は―、
その特権を活かして―、
自分のペースで、自分なりのスカイツリーを、
日々、一段一段、上がっていこう。

成長を楽しめる仲間たちと、互いの成長を喜び合いながら。

それが僕の、希望。
そして生きる活力の、みなもと。

      ◆

そんなことを考えていた、2015年の7月だった。
今日も感謝の日。
ありがとう。

 
 
by KazuFromJP | 2015-07-31 23:47 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
考えるほどに何がいいのかわからなくなってくる。
けれど「わからない」とつぶやいた瞬間に、
それでいいのかもしれないなとまた別な自分が声を被せてくる。
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本当に自分が何をやりたいかなんて、
正しく認識できている人のほうが少ないだろう。

アドラー心理学の岸見一郎先生が、
人の行動には必ず相手役がいると言っていたが、
今現在の自分の人間関係を全てリセットして、
自分のことを誰も知らないところに身を置いたとき、
「やりたいこと」が変わっていないのなら、
それが本当にやりたいことだと言えるのかもしれないななどと
考えている。

けれど人はその周囲の人との関係や、
その中で与えられた役割とか使命なんかを含めてその人だと考えるのなら、
その中でこそやりたいことが生まれてそれも自然なのではないかと
考えたりもする。

      ◆

で、一通り考えた結果、そんなのはどっちでもよくて、
何でもいいのだろうという結論に行き着く。

ただ何か決断する時に、
迷ったり、何かを怖れて一歩を踏み出せなかったりした際に、
そういう思考のやり方だったり哲学や思想が
役に立つことがあったりするのだと思う。

      ◆

人は誰もが、何かしらの怖れを抱きながら生きていると思う。
わざわざその怖れに立ち向かわなければいけないわけではないけれど、
その怖れに立ち向かう勇気が出たとき、
人はものすごく生きる力が充実するというか、活き活きしてくるような気がする。

そして、怖れに立ち向かう人に触れたとき、
人は、怖れに立ち向かう勇気がほんの少し、湧いてくるものだと思う。

      ◆

この社会の行く先はわからない。
何が正しいのかもきっとこの先、変わり続けてゆく。

その世界の片隅で、自身の怖れを見つめて、
静かに淡々と、偉大なるちっぽけな勇気の一歩を、
踏み出して生きていけたらいいと思った。

単なる自己満足でも自己犠牲でもなく、
世間的な名誉とは程遠い場所で、
いま目の前にある人とのご縁に、
そんな気持ちで丁寧に向かい合えたら、
その連続する刹那が、充実した人生の時間だと思う。

      ◆

自分の器以上に見せようと頑張る必要もなく、
なろうと努力することもなく、
だからといって自分の能力を見捨てて放棄することもない。

自分の持てる能力を、
出し惜しみすることなく
大げさに証明することもなく、
ただただあるものを人のために使うことができる、
それが幸せだと思う。

自分の発揮した能力によって人は、
喜ぶかもしれないし、ガッカリするかもしれない。
そこに良いも悪いもなくて、
ありのままの事実を見つめ、
嬉しかったり悔しかったりした自分の感情も事実として認める、
それを動機付けとして、
「もっとこうなりたい」などという気持ちが沸いてくる。

それが「やりたいこと」となり、
それがある限り明日への活力、生きる力が
充実してゆくのかなと思う。

「人が死ぬのは、死因があるからではなく、
生因がなくなったからだ」
と、師事している整体の先生が言っていたのを思い出した。

      ◆

人から見下されるのが怖いから、
放っておくと「すごい人」だと見られるような行動へ傾いてしまう。

それは自分の心を守る部分においては有効だが、
「すごい人」と思われる人生がよいか、
「人を勇気付けられる人」になれる人生がよいかの答えがどうだったのか、
自分の中で何度でも思い出せるようにしたい。

続けてきたこのブログも、心の排水のように使っているけれど、
どこかで繋がっている誰かの心に、
ほんの一滴の勇気の雫が落とせたら幸せなことだと思い、
またこれからも続けていきたいと思う。

     ◆

そんな、2015年の6月だった。

ありがとう。
今日も感謝の日。

 

 
by KazuFromJP | 2015-06-30 23:51 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
何というか、
仕事もあるし、お金もあるし、
食べ物もあるし、やりたいこともあるし、
やろうとすればやれることがいっぱいあるし、
そんな日々でオールOKなわけだが、
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自分の本質的な使命と、
この国家の中で求められている自分の役割と、
自分の感情が―、自分の生命が求めている何かと、
それらを見出す過程で出会う様々な思想の中で、
心揺らされ、わからなくなりそうなところで、
おおこれは何だか良いバランスだな、
などと一人で納得している新宿のワンルーム2015初夏。

      ◆

今月、『般若心経絵本』という素敵な本に出会った。
本の中のお気に入りの言葉の一つに、

「何も変えなくていい。
何も改めてはじめなくていい。」

という言葉があり、
何やら僕のみぞおち辺りにある球体の心の周囲を、
ふわふわとくるんで、やさしい温もりをくれている。

      ◆

矛盾するようだけれど、
「何も変えなくていい、何も改めて始めなくて良い」
と言われることで何だか、
何かを変えたり、始めたりしたくなる。

これは何なのかと考えていたらふと、夜空のイメージが浮かんだ。
後天的に捏造された、
「何かをしなくてはならない」
という暗雲をいったん取り除くことで、
その空の彼方に、在りたい自分の姿を、
導きの星として自然に見出すのだろうと。

その星に向かいたいという心の要求は、
外部から与えられた自分の役割ではなく、
自分の内部から湧いてくる自然エネルギーであり、
生命力の本質なのかなと思った。

だからこそ、その星に向かうための手段・
作戦・計画を考える作業はとても楽しく、
実際にその星にたどりつけるかどうかはもはや問題ではなく、
そこに向かおうとすること自体に、
自分の生命がここにある意味を無意識に
見出し感じているのだろうと思った。

      ◆

自分一人の世界で納得し自己完結した話なのだが、
読む人それぞれの世界において、
良いも悪いも必然的に、何かが起こって何かになることを信じて、
今日も送信ボタンを押すことにする。

ありがとう。
今日も感謝の日。
 
 
by KazuFromJP | 2015-05-31 23:22 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)
問題だと思っている人の中に問題はある。
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自分が重大な問題だと思っていることに、
他人が無関心であることが気になるのなら、
その問題の中にこそ自分のオリジナリティがある。

問題意識を人に押し付けることなく自身の課題だと思って取り組めばきっと、
そこに自分の世界が構築されそして、構築されたときに初めて、
他人もそれを理解できるようになる。

      ◆

「なぜもっとうまくできないのか?」
「なんでこんなバカなのか?」
「なんでそんなこともわからないのか?」
「なんでこんな簡単なことができないのか?」

それはすべて、そう思っている側の課題であって、
そう思われている相手側ではまた別の世界が広がっていて、
またその人なりに全く別の課題に取り組んでいる。

      ◆

「なんでこんなに素晴らしい教えが理解されない?」
「なぜ広まらない? 世の中に浸透しない?」」
「なぜこんな素晴らしい商品をみんな買わない?」
「なぜ選挙に行かない?」
「なぜポイ捨てする?」
「なぜ環境問題を考えない?」
「なぜ親孝行、老人孝行しない?」
「なぜ不健康な食品をつくる?売る?買う?」
「なんでルールを破る?」
「なんで他人の気持ちを考えない?」

それら全て、それが問題だと思っている人の課題。
良いも悪いもない。
問題だと思っている人にとって重要な課題がそこにある。
その人自身が生きている世界の中できっと、
その人はその問題を解決する力を持っている。

      ◆

たとえ相手を変えられなくとも、
きっと問題は解決できる。

なぜなら問題はすべて、
その人自身が生み出しているのだから。

相手の生きている世界は何も変わらなくとも、
自分の生きている世界はいつでも変えられる。

      ◆

問題意識はチャンスでもある。
きっとそのテーマの中に、
外の世界を変えることよりも、
自分の世界を深めていく鍵が隠されているから。

そう。だから、
問題意識を人に押し付けることなく自身の課題だと思って取り組めばきっと、
そこに自分の世界が構築されそして、構築されたときに初めて、
他人もそれを理解できるようになる。

僕は、そう思っている。

今日も感謝の日。
ありがとう。
  
 
by KazuFromJP | 2015-03-22 04:26 | 人間学実践塾・ユング心理学など | Comments(0)