カテゴリ:深く考えたシリーズ( 3 )
ひとを失う悲しみは、その人ともう会えなくなる淋しさだけでなく、
その人の前でしか出てくることのなかった自分自身と
もう会えなくなってしまう喪失感、
その悲しみであると、
ある人が言っていた。

昨年九月に、大切な友人が亡くなった。
その時にその言葉の意味を、深く、深く、実感していた。

そう。あの人とはもう会えない。
それは悲しいことだ。
しかし「あの人との関係の中で作られてきた自分」、
「あの人を前にしたときだけ姿を表した自分」は、
今でもこの僕の中にいて、
あの人と会う時のためにスタンバイし続けているのに、
もう表舞台に立つことは、二度とないのだ。
その悲しみはまた別の、苦しみに似た、喪失・虚無の感情だった。

      ◆

年末、お世話になっていた先生に、友人の死を報告しにいった。
先生が友人の姿を思い返して言われた。
「なんというか、生きることに一生懸命な方でしたよね」

その言葉がその後しばらく、僕の中で、小さく響き続けていた。
やがてそれは、喪失感を、希望のエネルギーへと、
氷河が日光で溶け出していくみたいに少しずつ、ゆっくりと変え始めた。

      ◆

「あの人の前でしか出てくることのなかった自分」はこの先、
僕の中で永久に、眠り続けるだろう。
けれど、「あの人と出会ったことで作られた自分」は、気づいてみると、
僕の日常の表舞台で、ちょこちょこ顔を出し、変わらず活動していた。

「一生懸命」という言葉が、本当に似合う人だった。

あの人と出会ったことによって影響され、作られた自分―。
一生懸命過ぎて空回りしながら突っ走っていた友人の姿を想うたびに、
僕は逆に冷静に、目の前のことに集注できた。
その自分は、今日でもここにいて、僕の表舞台で活躍し、
いま目の前で関わる人に、新たな影響を与えることができている。

      ◆

そのエネルギーの源流はその友人にあるのだということを想うと、
僕が日々生きていくことで友人を生かしている、
そういうことになるのかもなと、そんな気持ちを実感できた。
友人が巡り合うことのなかった、今ここにいる人に
そのエネルギーは、僕を介して、確かに届いているのだ。

そして同時にこう思う。
僕が友人から授かったエネルギーはそもそも、
友人が他の誰かから授かったものだったのだろうと。
するとこんな景色が脳裏に展開した。

     ◆

ある山の峠道で、
「一生懸命」と書かれた黄色いタスキを友人から受け取った僕は、
友人がいま駆け上がってきた走路の先に、
地面に腰を下ろしてこちらに手を振るいくつかの人影を見つける。
各々まかされた距離を走り終えた走者たちが、その路上に座り、
こちらにエールを送っている。

道を目でさかのぼり、たどってゆくと、
その先何千キロも続いてきた壮大な走路と、
その路上には点々と、手を振っている小さな人影。
それはどこまでも伸びていて、遠くかすみが掛かっていた。

その壮大な走路を、
何人もの手によって繋がれてきた黄色いタスキが、
目を落とすといま、僕の手の中にあった。

      ◆

ありがとう。

大切な友人に別れを告げた僕は、
前を向いて、歩き始めた。






by KazuFromJP | 2017-09-24 15:52 | 深く考えたシリーズ | Comments(0)
午前5時。まだ空は暗い。
昨夜から降り積もった雪のせいで
辺りは静まり返っている。
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文章を書くことは、自分の未熟さと向き合うことになる。
そんなことを思いながら、淡々と書いてゆく。

     ◆

自分の残した文章は、
常に今の自分より若い自分の文章になる。
大人になっている自分には、
過去の自分の未熟さがはっきりと見えるものだ。

2004年に書いた記事は、今から読みたくないほど稚拙なものだけれど、
その瞬間瞬間では、
大事なことだと思って書いていたのだと思う。

     ◆

人に心を読まれることに怖れを感じていた自分に
最近気づいた。

何か行動を起こすとき、
下心や本心を悟られぬように行動する癖がある。
それは文章にも表れていて、
なぜこの話題を持ち出すのか、
人にどう見られたいのか、どんな自分を見て欲しいのか、
どんな風に思われたくないのか、
あらゆる目に気を配って文章を書く。

「何を考えているのかわからない」
他人からそう思ってもらえれば楽だ。

     ◆

しかし自分に向けて書く文章は、
どう上手く書いても見破られてしまう。

自分に向けて書いている文章でさえ、
気づかぬうちにいつも自分に対してカッコつけているのだけれど、
そのカッコつけはやがて、
大人になった自分が見破ってくれる。

「本当はそうじゃないだろ?」
と。

     ◆

自分では気づかぬうちに抑圧している感情を、
ユング心理学では「シャドウ」という。

文章は、書かれた瞬間から自分という心理分析家の前に
サンプルとしてさらけ出される。
一度プレパラートとなった文章は無防備で、
過去の自分は、どうやっても未来の自分の分析力には勝てない。

その怖ろしき分析に耐えるには、
本音で文章を書くことだ。

     ◆

そして本音で文章を書くことで、
穏やかな心を持つことができる。
見破られる恐怖を抱えなくて済むからだ。

そういった意味でも、
ジュリア・キャメロンの「モーニングページ」は素晴らしい。
朝の脳は無防備だ。
ゆえに何の鎧もない本心が、
オートマティックにノートのラインに流れてゆく。

     ◆

自分の「シャドウ」に気づくたびに、
心は自由になっていく。
書くという行為はまるで、
「未来の自分」という精神科医に
心を診察してもらう行為のようだ。


ありがとう。

夏川草介著『神さまのカルテ』を読むのが楽しくて、
文章を書きたくなった。

何も事件が起こらなくとも読んでいて楽しい
という本に出会う機会は多くない。
ありがとう夏川草介さん。

     ◆

ただ読んでいたい。
ただ書いていたい。
ただそれだけで、
いいのかもしれない。

今日も60点アンパンマン。
素晴らしい世界。
ありがとう。
by KazuFromJP | 2011-02-15 06:18 | 深く考えたシリーズ | Comments(0)
時は2011年。
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今年もよろしくお願いします。


今日は、僕の大好きな田坂広志さんの出版記念講演会が新宿であった。
が、僕は行かなかった。
そして、充実した一日を過ごした。
そんな味わいライフありがとう。

最近は、直観と反応の区別について考えている。

     ◆

僕は「直観」という行動指針のもとに、ここ8年ほど生きてきた。
就活中に出会ったゲームプロデューサーの水口哲也さんが、
パウロ・コエーリョ著『アルケミスト』を紹介してくれた。
その中に出てきた賢者が確か、主人公の少年に、こんなこと風なことを言っていた。

「君が何かを実現しようと望んだとき、
何かその、前兆が現れることがある。
その前兆を逃さずに、直観を信じて行動しなさい。
そうすれば、世界は、君の思いを実現しようと動いてくれる」

8年前に読んだのでだいぶ違っているとは思うけれど、
僕が受け取ったのはこんなようなメッセージだった。
水口さん、パウロさんありがとう。

     ◆

それからは日々、「前兆」らしきものを信じて行動しまくった結果、
いろいろ楽しいことが起こったので、
僕はそれをアクティブフィーバーと名づけ、
やっぱ直観だよなーと、何も疑わずにアクティブな日々を送ってきた。


けれどその直観は、その「直観」だと思っていたものは、
果たして本当に自分の心の奥底からの直観なのか、
昨年秋ごろから疑ってみるようになった。

     ◆

それは直観ではなくて、
単なる外部の刺激に対する「反応」ではないのか。

スティーブン・コヴィー著『7つの習慣』の中で、
コヴィー博士は、主体性を発揮するためには、
外部からの刺激に対して反応的にならずに、
自分の感情を選択することが大切だと言っていた。

「刺激と反応の間にはスペース(選択の自由)がある」

という言葉は、名言だと思う。
例えば、
「車の運転中に、強引に割り込まれた」という「刺激」に対して、
すぐにプンプンと反応してしまう人は、
人生を主体的に生きていないということになる。

「強引に割り込まれた」という「刺激」に対して、
僕たちはいつだって、自分の感情を主体的に選択することができるはずだ
というのがコヴィー博士の考えだ。(と、僕は解釈した)
コヴィー博士ありがとう。

     ◆

社会には情報が溢れている。
「田坂広志出版記念講演会」もそうだ。

今までの僕なら、
「田坂広志=好き→行く」
という流れであったはずだった。

ちょうど今日はオフだったので、
これは出会いや成長や、新しい扉が開く「前兆」に違いないと信じて、
行動していたはずだった。
昨年までの僕だったら。

     ◆

しかし、2011年の僕は違った。
「確かに田坂広志さんは好きだが、
本当に今、このタイミングで、話を聴きたいのか?」

この自己への問いは、
先日読んで感銘を受けた亀田潤一郎著『稼ぐ人はなぜ長財布を使うのか』の
亀田氏のバーゲンに対する考え方をモデリングさせていただいた。
亀田さんありがとう。

亀田氏はバーゲンには行かず、
ポイントカードも持たないそうだ。
バーゲンに行けばそのお得感に惑わされ、
本当に心から欲しいものではないものまで買ってしまうからというのがその理由。
ポイントカードも、持っていると、
せっかく持っているのだから買い物をしよう、DVDを借りよう、
期限が近いから買い物をしよう、という、周囲に踊らされた行動をしてしまいがちになる。

コヴィー博士の言うところの反応的な人生を送るパターンだ。

     ◆

そう。僕は確かに田坂広志が好きだが、
今日の講演会に行きたいというのは
僕の本心ではなく心の表面的な暗示による幻覚的な欲求だと僕は思った。

人はよく、自分にレッテルを貼って行動してしまう。
「田坂広志=好き」というレッテルを自分に貼り付け、
それをステータスのように大事にする。

そしてそのレッテルに合わせた行動をとるのが自分らしさだと勘違いして、
自分の本心の声に無意識に耳をふさぎ、
「直観」という名のもとに反応的な行動をとる。

     ◆

さらに、今までの僕の行動パターンには特に、
行動自体に意味を持たせているパターンがあったように思う。

かなりややこしい話になるのだけれど、
僕は『アルケミスト』や、直観を信じなさいとアドバイスをくれた水口さんに感銘を受けた。
そして直観を信じて行動をしていく自分に陶酔し始め、
「直観→行動」というパーソナリティを自分のレッテルとして貼り付けた。
そういう自分の行動を、友人も恩師らも楽しみにしてくれたので、
それに応えようともしながら、
直観に従って行動を起こしまくるのが自分らしさだと勘違いして、
自分の心の核にある本当の欲求が見えなくなっていた。

     ◆

そんな僕はここにきて、
ようやく心の奥底の、自分の本心と向き合うことに成功した。(と思われる)

ありがとう田坂さん。
きっと僕が田坂さんに本心から会いたいと思ったときにまた、
講演会や何かで、お目にかかるタイミングがくると僕は信じている。
それこそが、直観なのだろうと今の僕は思った。

     ◆

そして今日は新宿に行かずに、
整体の本をたっぷり読み、自由が丘の先生のもとに通った。

そして深夜、近所のマクドナルドにパソコンを持ち込み、
こうして感謝大会東アジア予選2011の、1回戦を迎えられた。

どうもありがとう。
今日は、直観と反応感謝の日。


「文章は短く簡潔に!」という心の教師に採点され、
今日も60点。
そんな味わいライフ2011。
by KazuFromJP | 2011-01-20 04:53 | 深く考えたシリーズ | Comments(0)