ひとを失うということ
ひとを失う悲しみは、その人ともう会えなくなる淋しさだけでなく、
その人の前でしか出てくることのなかった自分自身と
もう会えなくなってしまう喪失感、
その悲しみであると、
ある人が言っていた。

昨年九月に、大切な友人が亡くなった。
その時にその言葉の意味を、深く、深く、実感していた。

そう。あの人とはもう会えない。
それは悲しいことだ。
しかし「あの人との関係の中で作られてきた自分」、
「あの人を前にしたときだけ姿を表した自分」は、
今でもこの僕の中にいて、
あの人と会う時のためにスタンバイし続けているのに、
もう表舞台に立つことは、二度とないのだ。
その悲しみはまた別の、苦しみに似た、喪失・虚無の感情だった。

      ◆

年末、お世話になっていた先生に、友人の死を報告しにいった。
先生が友人の姿を思い返して言われた。
「なんというか、生きることに一生懸命な方でしたよね」

その言葉がその後しばらく、僕の中で、小さく響き続けていた。
やがてそれは、喪失感を、希望のエネルギーへと、
氷河が日光で溶け出していくみたいに少しずつ、ゆっくりと変え始めた。

      ◆

「あの人の前でしか出てくることのなかった自分」はこの先、
僕の中で永久に、眠り続けるだろう。
けれど、「あの人と出会ったことで作られた自分」は、気づいてみると、
僕の日常の表舞台で、ちょこちょこ顔を出し、変わらず活動していた。

「一生懸命」という言葉が、本当に似合う人だった。

あの人と出会ったことによって影響され、作られた自分―。
一生懸命過ぎて空回りしながら突っ走っていた友人の姿を想うたびに、
僕は逆に冷静に、目の前のことに集注できた。
その自分は、今日でもここにいて、僕の表舞台で活躍し、
いま目の前で関わる人に、新たな影響を与えることができている。

      ◆

そのエネルギーの源流はその友人にあるのだということを想うと、
僕が日々生きていくことで友人を生かしている、
そういうことになるのかもなと、そんな気持ちを実感できた。
友人が巡り合うことのなかった、今ここにいる人に
そのエネルギーは、僕を介して、確かに届いているのだ。

そして同時にこう思う。
僕が友人から授かったエネルギーはそもそも、
友人が他の誰かから授かったものだったのだろうと。
するとこんな景色が脳裏に展開した。

     ◆

ある山の峠道で、
「一生懸命」と書かれた黄色いタスキを友人から受け取った僕は、
友人がいま駆け上がってきた走路の先に、
地面に腰を下ろしてこちらに手を振るいくつかの人影を見つける。
各々まかされた距離を走り終えた走者たちが、その路上に座り、
こちらにエールを送っている。

道を目でさかのぼり、たどってゆくと、
その先何千キロも続いてきた壮大な走路と、
その路上には点々と、手を振っている小さな人影。
それはどこまでも伸びていて、遠くかすみが掛かっていた。

その壮大な走路を、
何人もの手によって繋がれてきた黄色いタスキが、
目を落とすといま、僕の手の中にあった。

      ◆

ありがとう。

大切な友人に別れを告げた僕は、
前を向いて、歩き始めた。






by KazuFromJP | 2017-09-24 15:52 | 深く考えたシリーズ | Comments(0)
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