淡々と最善。虚栄と誇り。
誰かに読まれる場所に文章を書くという時点で、
虚栄から完全に距離を置くことはできない。
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読んでいただける人にはその観点をどこかに持ちつつ、
僕の劣等感や思慮の浅さに触れていただけたらと思う。

      ◆

日々特別なことではなく、「淡々と毎秒最善の選択」
というのが僕の目指したい生き方だけれど、
実際は最善から何百秒も、
何万秒も遠ざかってしまうことは日常茶飯事で、
だからこそわざわざ言葉にして
自分に言い聞かせながら目指す価値が
僕にとってはあるわけで。

ダルマさん人形が転がって揺られては元の位置に戻ってくるように、
不定位な気持ちがゆらゆら中心に集まってくるような辺りで、
心の流れや展望を観察していた。

      ◆◆

2009年から学んできた人間学実践塾の課題図書で、
『フランクルに学ぶ』(斉藤啓一・著)とのご縁をいただいてから、
僕の人生におけるお気に入りの一冊になっている。

今月改めて読み返していると、
過去6年間にに書き込みした様々な自分と出会うが、
過去の自分たちが素通りしていた箇所にまた次々目が止まり、
何年もかけて繰り返す読書は面白いなと改めて思う。

新しく傍線を引き、日付を書き入れた。
下記その辺をちょっと引用。

すなわち、ホロコーストとは、人間の根源的な差別意識の現われではなかったのだろうか、ということだ。

差別とは、自分を他者より優位に立たせようとする行為である。その根底にあるのは、おそらく自己保存の欲求であろう。この自己保存の欲求から、他者から侵害されるのではないかという恐怖が生まれてくるわけだ。

その恐怖にかられて、敵から襲われないように力をつけようとする。あるいは、力があるように見せかけよう(威嚇しよう)とする。

これが、自分を優位に置こうとする根本動機ではないのか?
これが、虚栄心や差別の根源ではないのだろうか?

(中略)

要するに、虚栄心も差別意識も、恐怖に対する防衛的態度の現れなのだ。虚栄によって人を見下し、虚栄心も差別化する根本動機は恐怖なのである。


(斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)


      ◆

仕事をしていても、買物をしていても、何かの講座の場面でも、
従業員・客、講師・生徒問わず、
相手を威圧しようとする態度が垣間見られることが多々ある。
威圧の態度だけでなく、
ニコニコしながらも必要以上に
自己の能力をアピールする姿に出会うことがある。

プンプンしていようがニコニコしていようがたぶん
その態度の動機は近いところにあって、
何がしかの能力の有無に関わらず、
能力を必要以上に見せつけることで、
自分を優位に置こうとしているのだと思う。
自身にも痛く思い当たる節が多々ある。

そこにあるのは劣等感からくる恐怖心で、
そのおおもとは、フランクルのいう
自己保存の欲求なのかもしれない。

      ◆

そういう仕組みについて考察しているマニアックな人間でも
無為自然で生きているような人でも
流されるままに生きている人でもみんなきっと、
自己保存の欲求はあるから、
誰かが不意に威圧してきたらまた、
それに対して防衛反応が起こって、
各人の心の特性に合った防衛行動に繋がっていく。

自分はさらに上だぞとアピールするように相手を威嚇したり、
ニコニコして仲間ですよとアピールしたり、
表情を変えずに何事もなかったように見せたり、
受け流した後で、自分の心の中で昇華したり。

      ◆

他者が不意に自己の優越性をアピールして攻めてきた際の、
聖人君子的な最善の選択は、
相手自身の中にある恐怖と欲求を察知した上で、
相手の欲求を満たすように虚栄の茶番に付き合い、
劣等者役として徹することだろうと今の僕は考察する。

ならばいつでも淡々と劣等者役になれたら
淡々と最善の選択の実践者になれるわけだけれど、
なかなかそうスムーズはいかない。
その理由は恐らくこうだ。

虚栄と誇りはもちろん違う。虚栄を満たすには他者を必要とするが、誇りは他者を必要としない。誇りとは、他者ではなく自らを征服した者の、内的な真の自信なのである。

(斉藤啓一・著 『フランクルに学ぶ』より)


相手の欲求を満たすように虚栄の茶番に付き合い、
劣等者役として徹してやろうとすることでまだ僕は、
相手の上に立とうとしている。
相手を見下す「虚栄」から脱却できていないこと故に、
自分の優越性を見出してくれる誰かを求めている。

      ◆

しかし聖書や経典の役割が恐らくそうであるように、
このフランクルや斉藤啓一氏の言葉が、
内的な他者となり得れば、
それを僕自身の誇りへと育ててゆける。

そういった角度から見れば、
聖書や経典は、
ただの印刷物であるところにとても価値があるように思う。

虚栄から脱却しようとして、
急に内的な誇りに基づいて行動しようと試みても、
生身の人間の多くは評価を与えてくれないわけで、
心が折られてまたすぐ虚栄へと向かってしまいがちになる。

しかし聖書や経典と同様に、
自分が見出さなければ何も応えてくれないという意味で、
本や、過去の偉人の言葉や行為は、
「誇り」へと向かおうとする心が折られそうな場面で、
いつでも支えになってくれる。

『フランクルに学ぶ』という本に触れることで、
僕はその支えを実感することができた。

聖書を枕元に置いて生きている人にとってはきっと、
この感覚が日常なのだろうと、聖者たちに想いを馳せた。

      ◆

虚栄社会が向かう理想は恐らく、
ギブアンドテイクの褒め合いに至り、
それはそれでほどほど心地良いかもしれない。

でも想像してみるとどこか、
世界全体のバランスがおかしいというか、
不安定な空気が思い浮かぶ。

それはたくさん並べた大小異なるダルマさん人形の上に、
ガラスのプレパラートをいくつも渡すように並べている感じ。
ダルマさん同士は直接ぶつからないが、
プレパラートの重みと角度によって傾けられたダルマさんは、
他のダルマさんに向かって傾いたまま止まってしまう。

そんなガラス板を全て取り去って、
ダルマさん同士で直接ぶつかり合えば、
表面的な衝撃は大きくなるけれど、
その度にゆらゆら互いに揺られてやがて、
自分の中心軸に戻っていく。
その中心軸が、他者を必要としない「誇り」かなと思う。

プレパラートのない関係に想いを馳せて、
日々自分の劣等感と向き合いたい。

      ◆

僕の書く文章が「誇り」に拠るものでも「虚栄」に拠るものでも、
それを受け取る誰かにとっては恐らくどうでもよい問題で、
多くの人は、自分の内なる問題として受け取るはずだと僕は考える。

単に他者に優劣を付ける行為であっても、
結局は自分の中にある「優」と「劣」の
とある指標からの距離を測っているわけで、
自分の中の問題に触れていることになる。

だから、虚栄に拠る僕の文章であっても、
フランクルや斉藤啓一氏の残した文章や生き方が
僕の誇りを支えてくれるように、
読む人それぞれが、自身の中に新たな価値を発見する
何がしかの種にでもなればいいと思いつつブログを続けてゆく。

自身の中では、優劣や勝ち負けのレベルを超えて、
また、時間や場所も越えて、
誰かと何かを共有できたら楽しいだろうという気持ちで
ここに今、この瞬間の軌跡を残してゆく。

      ◆

今日もありがとう。
フランクル博士、斉藤啓一氏、僕の中の誇りや虚栄に感謝の日。
いまここに在る場所と時間に、ありがとう。
 
 


 
  

by KazuFromJP | 2015-10-18 09:22 | 人間学実践塾・ユング心理学など
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