やりたいこと・怖れ・生きる活力
考えるほどに何がいいのかわからなくなってくる。
けれど「わからない」とつぶやいた瞬間に、
それでいいのかもしれないなとまた別な自分が声を被せてくる。
b0001402_23551124.jpg

本当に自分が何をやりたいかなんて、
正しく認識できている人のほうが少ないだろう。

アドラー心理学の岸見一郎先生が、
人の行動には必ず相手役がいると言っていたが、
今現在の自分の人間関係を全てリセットして、
自分のことを誰も知らないところに身を置いたとき、
「やりたいこと」が変わっていないのなら、
それが本当にやりたいことだと言えるのかもしれないななどと
考えている。

けれど人はその周囲の人との関係や、
その中で与えられた役割とか使命なんかを含めてその人だと考えるのなら、
その中でこそやりたいことが生まれてそれも自然なのではないかと
考えたりもする。

      ◆

で、一通り考えた結果、そんなのはどっちでもよくて、
何でもいいのだろうという結論に行き着く。

ただ何か決断する時に、
迷ったり、何かを怖れて一歩を踏み出せなかったりした際に、
そういう思考のやり方だったり哲学や思想が
役に立つことがあったりするのだと思う。

      ◆

人は誰もが、何かしらの怖れを抱きながら生きていると思う。
わざわざその怖れに立ち向かわなければいけないわけではないけれど、
その怖れに立ち向かう勇気が出たとき、
人はものすごく生きる力が充実するというか、活き活きしてくるような気がする。

そして、怖れに立ち向かう人に触れたとき、
人は、怖れに立ち向かう勇気がほんの少し、湧いてくるものだと思う。

      ◆

この社会の行く先はわからない。
何が正しいのかもきっとこの先、変わり続けてゆく。

その世界の片隅で、自身の怖れを見つめて、
静かに淡々と、偉大なるちっぽけな勇気の一歩を、
踏み出して生きていけたらいいと思った。

単なる自己満足でも自己犠牲でもなく、
世間的な名誉とは程遠い場所で、
いま目の前にある人とのご縁に、
そんな気持ちで丁寧に向かい合えたら、
その連続する刹那が、充実した人生の時間だと思う。

      ◆

自分の器以上に見せようと頑張る必要もなく、
なろうと努力することもなく、
だからといって自分の能力を見捨てて放棄することもない。

自分の持てる能力を、
出し惜しみすることなく
大げさに証明することもなく、
ただただあるものを人のために使うことができる、
それが幸せだと思う。

自分の発揮した能力によって人は、
喜ぶかもしれないし、ガッカリするかもしれない。
そこに良いも悪いもなくて、
ありのままの事実を見つめ、
嬉しかったり悔しかったりした自分の感情も事実として認める、
それを動機付けとして、
「もっとこうなりたい」などという気持ちが沸いてくる。

それが「やりたいこと」となり、
それがある限り明日への活力、生きる力が
充実してゆくのかなと思う。

「人が死ぬのは、死因があるからではなく、
生因がなくなったからだ」
と、師事している整体の先生が言っていたのを思い出した。

      ◆

人から見下されるのが怖いから、
放っておくと「すごい人」だと見られるような行動へ傾いてしまう。

それは自分の心を守る部分においては有効だが、
「すごい人」と思われる人生がよいか、
「人を勇気付けられる人」になれる人生がよいかの答えがどうだったのか、
自分の中で何度でも思い出せるようにしたい。

続けてきたこのブログも、心の排水のように使っているけれど、
どこかで繋がっている誰かの心に、
ほんの一滴の勇気の雫が落とせたら幸せなことだと思い、
またこれからも続けていきたいと思う。

     ◆

そんな、2015年の6月だった。

ありがとう。
今日も感謝の日。

 

 
by KazuFromJP | 2015-06-30 23:51 | 人間学実践塾・ユング心理学など
<< 希望について 何も変えなくていい。何も改めて... >>