自分の中にいる人格たちと対話する日々。
ある日、好きな人たちの中で過ごしていて、
楽しい時ほど見落としてしまいがちなサブパーソナリティ(人格)が
自分の中にいることに気がついた。
毎度のことながらロベルト・アサジオリさんが
「サイコシンセシス」で例えているイメージを借りると、
「本当の自分」とは、様々な人格の集合体で、
それはまるで個性的なオーケストラ(楽団)のようなものだという。
◆
丁寧に自分の心を見ていると、
たとえ心から楽しいと思える素敵な時間の中にも必ず、
誰かの些細な言動で一瞬傷ついている自分が、
心のどこかに隠れていたりする。
そのとき楽団全体としては、
素晴らしい会場で、最高のオーディエンスに囲まれ、
非常に気持ちいい演奏をしているような状態。
◆
ところが、聴衆の最前列右から3番目辺りの人が特に悪気もなく一言、
「あの第2バイオリン、今日ちょっと調子悪いのかなー」
とつぶやいた瞬間、ナイーブな第2バイオリンのケビン(仮名)は、
激しく戸惑う。
と同時に、傷ついたケビンを排除しようとする
別のパーソナリティが出てくる。
◆
理性で演奏をするダニエル。
理性で考えるダニエルは、
「そんな些細なことで傷つくのは大人げない。
楽団にとって何の利益にもならない。
会場全体が楽しんでいる中、勝手に傷ついて
悲しみの不協和音を出すメンバーは必要ない」
と言う。
それから善悪で物事を考えるジョージ。
ジョージは、
「前列3番目の方にはいつも差し入れをいただいている。
毎回我が楽団の会には足を運んで下さり、支えてくださっている。
素晴らしい人だ。
聴衆がどんな感想を持とうが自由だ。
そんなことでいつもの演奏ができなくなるケビンが悪い」
◆
そうして他のパーソナリティから否定されたケビンは、
聴衆に気づかれないように自らステージの裏に回りこみ、
カーテンの裏に隠れて独り、静かに悲しく、バイオリンを弾く。
ユング心理学的に言うと、その後ケビンはグレてシャドー化し、
誰にも見えないところから楽団の邪魔を始める。
本来、ケビンは前列3番目の人を責めないようにと、
ある種の優しさから自分の姿を消したのに、
シャドー化したケビンはやがて時が経つと、
最終的には前列3番目の人を恨み、
憎悪を抱くようになる危険性をもっている。
(すごく良い人なのに、なぜか好きになれない人がいたなら、
自分のシャドーに起因していることがあるかもしれない)
◆
自分が傷つくことに罪悪感を感じて、
90%楽しかった出来事を、
100%楽しかったような振りをしてしまう人は多いように思う。
「今日は楽しかった」
「昨日はつまらなかった」
そんな風に単純に二元論で決めてしまえば、
それ以上考えなくて済むので理性はラクかもしれないけれど、
実際の自分は、一日の中でも目まぐるしく感情が動いている。
◆
知人に対しても、
「あの人は好き」
「この人は嫌い」
と決めつけてしまうことが、
後になって、
ありのままの自分の感情を抑圧してしまう原因になると思う。
「悪気のない一言を発した相手」と、「それを受け取った自分」。
社会の常識に照らして考え、どちらが悪いのかと判決を下すのなら、
悪いのは「勝手に傷ついた自分」となってしまう。
大好きな相手を「加害者」として扱うことを拒否するサブパーソナリティが
余計な裁判を開いた結果、
「自分は傷ついてなんかないことにしよう」
と決めてしまうことがよくある。
◆
ならどうすればよいのか。
アサジオリさんは、指揮者(パーソナルセルフ)の視点が大切だという。
個性的な演奏者たちの音、発言、気持ちを一つ一つすべて聴いてあげる。
そして、彼らが彼らのままでステージ上に同等にいられるように、
一人ひとりの存在を認めてあげること。
そして指揮者は、どの演奏者(サブパーソナリティ)にも同調せず、
中立な指揮台の位置を保ち続けること。
◆
傷ついたことを他人に、ましてや相手に伝える必要はない。
けれど、自分の中にいる指揮者にだけは、
その事実を知らせてあげること。
そして指揮者は、演奏者が傷ついた瞬間を見逃さず、
その事実を認めてあげることが大切。
けれど傷ついた演奏者にも同調はしない。
存在を認めてあげるだけでいい。
つまりは、自分自身がそういう感情を抱いた事実に、
気づいて、認識しておくことで、
自分の感情をコントロールしやすくなる、
ということだろう。
アサジオリさんやユングさんたちの結論は恐らく。
◆
すごく楽しかった時間を過ごした友人と、
こんな内容のことを互いに話して、
互いになるほどなーと感じていた。
こんな抽象的なことが伝わり、共有できる相手がいることが、
また幸せだなと思った。
ありがとう。
ある日、好きな人たちの中で過ごしていて、
楽しい時ほど見落としてしまいがちなサブパーソナリティ(人格)が
自分の中にいることに気がついた。

「サイコシンセシス」で例えているイメージを借りると、
「本当の自分」とは、様々な人格の集合体で、
それはまるで個性的なオーケストラ(楽団)のようなものだという。
◆
丁寧に自分の心を見ていると、
たとえ心から楽しいと思える素敵な時間の中にも必ず、
誰かの些細な言動で一瞬傷ついている自分が、
心のどこかに隠れていたりする。
そのとき楽団全体としては、
素晴らしい会場で、最高のオーディエンスに囲まれ、
非常に気持ちいい演奏をしているような状態。
◆
ところが、聴衆の最前列右から3番目辺りの人が特に悪気もなく一言、
「あの第2バイオリン、今日ちょっと調子悪いのかなー」
とつぶやいた瞬間、ナイーブな第2バイオリンのケビン(仮名)は、
激しく戸惑う。
と同時に、傷ついたケビンを排除しようとする
別のパーソナリティが出てくる。
◆
理性で演奏をするダニエル。
理性で考えるダニエルは、
「そんな些細なことで傷つくのは大人げない。
楽団にとって何の利益にもならない。
会場全体が楽しんでいる中、勝手に傷ついて
悲しみの不協和音を出すメンバーは必要ない」
と言う。
それから善悪で物事を考えるジョージ。
ジョージは、
「前列3番目の方にはいつも差し入れをいただいている。
毎回我が楽団の会には足を運んで下さり、支えてくださっている。
素晴らしい人だ。
聴衆がどんな感想を持とうが自由だ。
そんなことでいつもの演奏ができなくなるケビンが悪い」
◆
そうして他のパーソナリティから否定されたケビンは、
聴衆に気づかれないように自らステージの裏に回りこみ、
カーテンの裏に隠れて独り、静かに悲しく、バイオリンを弾く。
ユング心理学的に言うと、その後ケビンはグレてシャドー化し、
誰にも見えないところから楽団の邪魔を始める。
本来、ケビンは前列3番目の人を責めないようにと、
ある種の優しさから自分の姿を消したのに、
シャドー化したケビンはやがて時が経つと、
最終的には前列3番目の人を恨み、
憎悪を抱くようになる危険性をもっている。
(すごく良い人なのに、なぜか好きになれない人がいたなら、
自分のシャドーに起因していることがあるかもしれない)
◆
自分が傷つくことに罪悪感を感じて、
90%楽しかった出来事を、
100%楽しかったような振りをしてしまう人は多いように思う。
「今日は楽しかった」
「昨日はつまらなかった」
そんな風に単純に二元論で決めてしまえば、
それ以上考えなくて済むので理性はラクかもしれないけれど、
実際の自分は、一日の中でも目まぐるしく感情が動いている。
◆
知人に対しても、
「あの人は好き」
「この人は嫌い」
と決めつけてしまうことが、
後になって、
ありのままの自分の感情を抑圧してしまう原因になると思う。
「悪気のない一言を発した相手」と、「それを受け取った自分」。
社会の常識に照らして考え、どちらが悪いのかと判決を下すのなら、
悪いのは「勝手に傷ついた自分」となってしまう。
大好きな相手を「加害者」として扱うことを拒否するサブパーソナリティが
余計な裁判を開いた結果、
「自分は傷ついてなんかないことにしよう」
と決めてしまうことがよくある。
◆
ならどうすればよいのか。
アサジオリさんは、指揮者(パーソナルセルフ)の視点が大切だという。
個性的な演奏者たちの音、発言、気持ちを一つ一つすべて聴いてあげる。
そして、彼らが彼らのままでステージ上に同等にいられるように、
一人ひとりの存在を認めてあげること。
そして指揮者は、どの演奏者(サブパーソナリティ)にも同調せず、
中立な指揮台の位置を保ち続けること。
◆
傷ついたことを他人に、ましてや相手に伝える必要はない。
けれど、自分の中にいる指揮者にだけは、
その事実を知らせてあげること。
そして指揮者は、演奏者が傷ついた瞬間を見逃さず、
その事実を認めてあげることが大切。
けれど傷ついた演奏者にも同調はしない。
存在を認めてあげるだけでいい。
つまりは、自分自身がそういう感情を抱いた事実に、
気づいて、認識しておくことで、
自分の感情をコントロールしやすくなる、
ということだろう。
アサジオリさんやユングさんたちの結論は恐らく。
◆
すごく楽しかった時間を過ごした友人と、
こんな内容のことを互いに話して、
互いになるほどなーと感じていた。
こんな抽象的なことが伝わり、共有できる相手がいることが、
また幸せだなと思った。
ありがとう。



























